「それじゃあ、お邪魔しまーす!」
「うるさいです。もう夜遅いんですから静かにしてください」
 トキヤがげんなりしながらも壁の方に体を寄せてくれる。防音されているから隣の迷惑にはならないのにと思いながら、俺は適当に「はーい」と返事する。それから、秘密基地に入るようなすごくワクワクした気分でトキヤのベッドの開いたスペースに潜り込んだ。持ち込んだ枕をトキヤのものにくっつけて置くと、素早く十センチぐらい横にずらされた。もう一度くっつければ、枕を床に放り投げられる。「ちょっとくらいいいじゃん」と文句を言いながらそれを拾って、少し離れた所に枕を置く。
 それからようやくトキヤの隣に寝転がって、体をもぞもぞと動かした。すると、横幅が狭いシングルベッドに男ふたりが寝ているから、すぐに手足がトキヤにぶつかってしまっていつもより不自由だった。これじゃあ、思いっきり手足を伸ばしたりゴロゴロ寝返りを打つこともできない。それでも高鳴る胸は収まらず、興奮のままにトキヤの体を思い切り揺さぶった。額を遠慮なく叩かれて、揺さぶるのは止めたけど話し掛ける。
「何かお泊まり会とか修学旅行みたいで楽しいね」
「いつも同じ部屋で寝てるじゃないですか、何を今さら」
「だけど、同じベッドで寝るのは初めてだよ。狭いけど何か楽しい!」
「私の真横ではしゃぐのは止めてください。床に突き落としますよ」
「明日も一緒に寝ていい?」
「明日にはシーツも乾いてます。断固として寝かせませんからね」
 俺に背中を向けているトキヤが顔だけこっちに向けて強い視線を向ける。ああ、そっか。明日には乾いちゃうのか。じゃあ、また今夜みたいに、俺がシーツにココアを零して洗濯して、代えのシーツもたまたま洗濯中で俺のベッドで眠れない……っていう状況にしようかな。そうしたらトキヤもまた「しょうがないから」って自分のベッドで寝かせてくれるよね。多分、さっきみたいにしばらくお説教されてから「……これが夏場ならソファーで寝ろと言うところですが、今は真冬……。馬鹿は風邪引かないと言いますが、万一あなたが風邪を引けば面倒を見るのは私です。仕方ないので、私のベッドの三分の一くらいなら使っても構いませんよ」って優しくしてくれる。素直じゃないけど、本当にいい奴。トキヤと付き合う子はきっと幸せになれる。
 部屋の電気は消えていて、ベッドランプだけが点いている。同じ部屋なのに、いつも見上げている天井とは違って新鮮だ。毎晩トキヤが見ている天井だと思うと、何か面白い。深呼吸をするとトキヤの匂いがした。毛布を鼻まで引っ張り上げてみると、やっぱりどこかトキヤの匂いがする。スンスンと音を立てて毛布やシーツの匂いをかいでいると、トキヤが驚いた顔で振り返る。
「何をそんなに匂いをかいでいるんですか」
「えー、トキヤの匂いがするなと思って」
「嫌なら床で寝てください」
 鼻をギュッとつままれて、小さく首を振りつつ鼻声で答えた。
「そんな事言ってないよ!」
「じゃあ何だと言うんです?」
「いい匂いって事」
「やっぱり床で寝てください」
「そんなぁ、誉めてるのに」
「いいからもう黙ってください。私は寝ますからね」
「はーい。おやすみ」
「……おやすみなさい」
 トキヤはまた俺に背を向けて、俺も仰向けの状態で瞼を閉じた。
 それにしても寒い。毛布にくるまってるのに、まだ肌寒さを感じる。早く暖かい季節にならないかな。でも、暖かい季節だと一緒に寝かせてくれないかも。
 自分を抱き締めるようにして体を暖めていると、いきなり爪先がヒヤリとした。反射的に足を引っ込めたせいか、冷たさが無くなった。だけど安心するのと同時にまた冷たい何かが足に押し当てられる。俺は顔を隣に向けた。
「……トキヤくーん」
「……」
「冷たいんだけど」
 トキヤは何の反応もせず、変わらずに自分の冷たい足を俺のに押し付けて暖めようとしている。トキヤって体温低いし、福岡生まれのせいかこの頃ずっと寒そうにはしてたけどさぁ……。いくらなんでも……。
「もしもーし、トキヤぁ?」
 名前を呼びつつ背中をノックすると、ようやく振り向いたトキヤはふてくされた顔をしていた。えっ、何その態度。
「寒いんですから仕方ないでしょう」
「俺の足が冷たくなっちゃうよ!」
「知りません。ベッドを貸してやってるんですから、それくらいしてください」
「もー、ワガママ!」
 横暴なトキヤから逃げる為にベッドの端の方へと移動する。そうしたらトキヤまでこっちの方に詰めてきて、俺の方に横向きになって足を伸ばしてきた。血が通ってないのかと思うくらいに冷たい。
「だーかーら、冷たいってば。寒いなら靴下履いて寝ればいいのに」
「寝る時に靴下を履くのは好きじゃないんです」
 俺が提案した解決策をバッサリと切り捨てる。「知らないよ」としか言いようがない。そうしている間にも足先の体温がどんどん奪われていく。トキヤに向き合うと、次はふくらはぎの間に足を突っ込んでくる。自分の足で人の足を挟んだままの状態ではさすがに寝られないよ……。
 俺は勢いよく上半身を起こして、毛布を跳ねのけて、トキヤの両肩をベッドに強く抑え込んだ。お腹の上を跨いで腰を下ろす。これなら冷たい足を押し付けられる事もない。
 初めて見る角度のトキヤは、不意打ちを喰らったせいでポカンとして俺を見上げていた。薄く口を開けて、目を瞬かせる姿が何だか小さい子のようだ。セットしてないからまっすぐになっている紺色の髪が枕の上に散っている。パジャマの襟元から鎖骨が見えている。……イケメンは鎖骨まで綺麗だからズルイ。掴んだ肩は俺のより薄かった。十分細いのにダイエットしてるせいだ。もうちょっとご飯食べればいいのに。そんな事を思いながら、この数分の不満を改めて訴える。努めて険しい顔をして、トキヤを睨みつけた。
「冷たいって言ってるじゃんか」
「……すみません」
 表情を変えないままで謝ったトキヤを見て、つい笑ってしまった。腕の力を抜いて、組み敷いた体の上に横たわる。ベッドに直接寝るより暖かい。だけど。
「重たいんですが」
「トキヤー……、寝にくいよぉ」
 ベッド見たいに平らじゃないし、柔らかくない。トキヤの肩に額を預けたまま愚痴ると、耳元で小さく短い笑い声がした。
「なら、降りればいいでしょう」
「えー。せっかくだし、後もうちょっと」
「ベッドは半分貸しましたが、私の上で寝ていいとは一言も言っていないですよ」
 今度はため息。だけど背中にそっと両手が載せられた。俺もトキヤの体の下に手を差し込んで、しばらくそのままでいた。慣れてみると、暖かいし結構大丈夫かもしれない。後十分こうしていたら寝ちゃいそうだ。
 毛布やシーツよりも、トキヤの匂いがはっきりとする事にふと気づいて、黒いパジャマの襟元をかぎまわってから、トキヤの首筋に鼻先を押し当てた。「ひっ」と悲鳴がした。そこで呼吸をする度に、鼻孔中にトキヤの清潔な匂いが広がる。花を匂うのと同じようにそれを楽しもうとした俺をトキヤはグイグイと押してきた。
「何なんですか! くすぐったいから止めなさい!」
「夜遅いんだから、静かにしないとダメだよ」
 トキヤがグッと言葉を呑む。その隙に首筋からこめかみあたりの髪の毛に顔を埋めると、やっぱりいい匂いがした。サラサラとした毛先が顔をくすぐる。
「トキヤの髪もいい匂いー」
「あなたも同じシャンプーじゃないですか」
「あ、本当だ!」
 顔を上げて、自分の髪を掴んで鼻先に持ってきて匂ってみる。だけど、何か違う気がして首を傾げた。
「んー? トキヤみたいな匂いしないよ? どう思う?」
「……自分がどんな匂いなのかはあまり分かりませんが、音也らしい匂いだと思いますよ」
 掴んでいた髪をトキヤの顔の前に寄せると、トキヤは俺の頭を抱え込むようにして匂いをかいだ。
「俺らしい匂いってどんなの?」
「そうですね……、暖かい匂いです」
「暖かい? こたつとか? ミカン?」
 俺の言葉にトキヤが吹き出した。深夜のテンションで笑いやすいのかな。
「もうミカンでいいです」
「何か微妙かも……。あ、俺って暖かいの?」
 俺らしい匂いっていうのが暖かい匂いって事は、そういう事だよね。
「冷たくはないでしょう」
「うん、よく体温が高いって言われる」
「そういう事ではないんですが……。もういいです、いい加減降りてください」
「このまま寝たらダメ?」
「ダメに決まっているでしょう。私が潰れてしまいます」
 それは困る。トキヤとはまだまだ歌っていたいし話していたい。俺が隣に転がり落ちると、トキヤは息を吐きながら壁側を向いた。今まですごく近い距離で向き合って喋ってたから、トキヤに触れていないのが何か寂しい、物足りない。昨日まではひとりで寝るのが当然だったのに。
 気づかれないように枕を下の方に置いて、トキヤの肩を掴んで無理やり向かい合わせた。それから抱き締めるようにくっつく。また叱られるかな……。少しドキドキしながら反応を見ていると、トキヤは特に変わらない様子で俺を見ていた。
「それ、いいですね」
「えっ?」
 何がいいの? と思っていると、両手で頬が挟まれる・うわ、手も冷たい。あまりにも可哀想なほど手が冷えているから、少しでもマシになればと思って、されるがままでいた。
「暖かくてよく眠れそうです」
「……そう?」

こんな感じで、付き合っていないのに音也とトキヤがひたすらいちゃついている話です。

「次はマサとレンかあ。大丈夫かな?」
「大丈夫ではないと思いますが」
 教室に向かいながらふたりは、今は全く目を合わせようとしない。最後までこの話に反対していたのは彼らだった。次の撮影が無事に進むのかも不安が残る。
「やってみると結構楽しかったんだけどね」
 音也の手が私のものにぶつかった。彼はそのまま手を握ってきて、更に大きく前後に腕を振る。
「子どもじゃないんですから止めなさい」
「はーい」
 私の注意に素直な返事がしつつ、今度は私の指の合間に自分の指を割り込ませようとしてきた。指を強くくっつける事で拒んでいると音也が口を尖らせて不満そうな視線を向けてくる。そんな顔しても、甘やかしませんからね。
「ちょっとくらいいいじゃん、トキヤのケチ」
「知りません」
「ねー、お願い。教室まででいいからさぁ」
「嫌です」
「えー! ……じゃあ、今日部屋に帰ったらずっと静かにするから!」
 静かに……ですか。音也に話し掛けられる事なく、課題や読書に集中する自分の姿を想像して、私は頷いた。
「本当に教室までですよ」
「うん!」
 音也が嬉々として指を絡め合って手を繋ぐ。一体何がそんなに嬉しいんでしょうか。私には分かりませんね。
 ふと視線を感じて、振り返ると後ろを歩いていた翔が気まずそうな顔で私達を見ていた。
「翔、何ですかその顔は」
「いや、その……」
「何々? どうしたの?」
 何かを言いたそうにしている翔がしばらく悩んでから、意を決したように次の言葉を言った。
「……お前らって付き合ってんのか?」
「えっ? 付き合ってないよ?」
「音也の言う通りです。大体、私達のどこをどう見たらそういう風に思うんですか?」
「…………」
 あまりにも突拍子な発言に、私も音也も少し戸惑ってしまう。無言になる翔にふたりで首を傾げた。
「……あ、そうだ。俺、昨日の夜トキヤの歌作ったんだー。後で聞いてよ!」
「静かにしてくれるんじゃなかったんですか?」
「それとこれとは別! トキヤのいい所をいっぱい並べた歌詞で、自信作なんだ!」
「何ですか、それ。まあいいですよ、帰ったら歌ってくださいね」
 私と音也はそんな事を話した。……手を繋いだままで。

手を繋いだり

 放課後、俺はひとりでレコーディングルームに籠っていた。窓の無いその場所で数時間を過ごしていたせいで、いつの間にか降り出した雨にも気づかなかった。
「雨だ……」
 予約時間が終わり、廊下に出てからようやく天気が変わっていた事を知る。七月下旬の蒸し暑い空気の中、外はすっかり暗くて、窓ガラスがびしょびしょに濡れていた。ザーザーと大きな雨音と風の吹く音が微かに聞こえてくる。そういえば昼前からずっと曇ってたっけ。だけど、朝に天気予報を見なかったせいで、俺は傘を持って来ていない。校舎から寮までは走って五分くらいだけど、この雨だとそれでもシャワーを浴びたみたいにずぶ濡れになりそうだ。部屋の床を濡らしたら、トキヤ怒るだろうな……。むしろ入れてくれないかもしれない。
 憂鬱な気分でエントランスを抜け出た途端、まるで空が一瞬で晴れあがったような気分になった。軽くなった心のままに駆け寄る。
「トキヤ! こんな所で何してんの?」
 庇の柱にもたれたまま大雨に濡れる景色を眺めている私服姿のトキヤに、弾んだ声で話し掛ける。するとこっちを振り向いたトキヤは暗い顔をしていた。
「……あなたを待っていたんです」
「え、何で?」
「あなたが傘を持っていないからですよ」
 そう言うトキヤの手には俺の赤色の傘があった。その傘を見つめながら、言葉の意味を考える。私服って事は一旦部屋に戻ってる。それで、俺が傘を持ってないから、俺の傘を持ってここまで戻ってきた……。
「つまり、俺のこと迎えに来てくれたの!?」
 そっぽを向いたからきっと正解だ。思わずにやけてしまう。トキヤに叱られる事ばかり考えていて、傘を持って迎えに来てくれるなんて想像もしなかった。どうしよう、すっごく嬉しい!
「じゃあ、帰ろ帰ろー! 俺、お腹空いてるんだぁ」
「音也」
 俺の傘を手にしてその場に立ち止まったまま、トキヤは気まずそうに視線をあっちこっちにやった。迎えに来てくれたのに、何でそんな顔をするんだろう。俺は首を傾げて様子を見守った。
「その、言うことがあるんです」
「何? 俺に告白?」
「違います」
 真顔でバッサリと切り捨てられる。冗談なのに。トキヤはすぐに眉尻を下げて、視線を手元に向けた。
「……ここに来る時、私の傘が壊れてしまって」
 体と柱の間に隠すように置いていたトキヤの紺色の傘は一目見ただけで三、四本の骨がポッキリと折れているのが分かった。それを見た瞬間、俺は声をあげて笑った。
「ぶふっ、うわー! これは……これは、ひど、い……」
「笑わないでください! 風が強かったんです! なので、傘があなたのものしか……」
「くく……、ごめんごめん。つい笑っちゃった。それじゃ、俺と相合い傘で帰ろっか。大きめのサイズだから一緒に入れるよ。雨が強いからどうしても濡れると思うけど」
「……ミイラ取りがミイラになったような気分です」
「ミイラが何だって? 授業でミイラの役でもしたの?」
「もう結構です。これ以上雨がひどくならないうちに、さっさと帰りましょう」
 俺の傘を開いたトキヤの左隣に立って、ふたりで大雨と風の中を歩き始める。辺りには誰もいない。少し歩いてすぐに腕やスラックスの裾が濡れ始めた。大きな傘でも、男ふたりが並ぶにはやっぱり物足りない。時々強い風が吹いていて、雨の匂いがする。所々に立つランプの光に雨筋が照らし出されている。それをボーっと見ていると、トキヤの手が頭に当たった。
「あ、すみません」
「傘、俺が持とうか?」
「いいですよ。私の方が背が高いんですから」
 四センチなんて大した差じゃないのにドヤ顔をする。ムカつくけど面白くって、笑いながら肩を軽くぶつけた。
「なら、一緒に持とうよ」
柄を握るトキヤの手に自分の手を重ねると、俺のとは全然違うスベスベな感触がした。多分、毎晩風呂上がりにクリームをベタベタ塗ってるおかげだ。
「余計持ちにくいのですが」
「気にしない、気にしなーい。迎えに来てくれたお礼に、俺も支えてあげる! ほら、風も強いみたいだし」
「部屋を濡らされては困るので、迎えに来ただけですよ」
 正面を真っ直ぐ向いている横顔を見つめる。トキヤがいなかったら、今頃俺はずぶ濡れで必死に走っていた。視線に気づいたトキヤがこっちを見たから笑いかけた。重ねた手を握り直す。
「自分の事を迎えに来てくれる人がいるのって、本当に嬉しいね」
「……そうですね」
 一瞬憂う顔をしたトキヤが少し俯いた。空気がシンとなる。しまった。慌てて次の言葉を口にする。
「だからさ、ありがとう、トキヤ。……一緒の部屋になってまだ三ヵ月くらいだけど、俺、トキヤと同じ部屋でよかったー!」
 うるさい雨音を掻き消すくらいの声量で叫んで、嬉しさを表現する。それなのにトキヤは沈んだ声を出す。
「私はあなたと同室で不満だらけです」
「え、マジで……?」
「さあ? どうでしょうね?」
 めちゃくちゃビックリしてうろたえる俺をよそに、トキヤは目を細めて小さく笑う。それで俺はようやくホッとした。
「何だ、冗談かぁ。もう、驚くからやめてよ」
「ええ、半分は冗談です」
「半分って! 全部じゃないの!? あーあ、俺はトキヤの事大好きなのにな」
「そうですか、ありがとうございます」
「あっ、信じてない」
 明らかな棒読みで言われれば、さすがの俺でも言葉通りには受け取らない。むくれると、トキヤは呆れた風に流し目を向けた。
「音也は誰にでもそういう事を言うでしょう」
「そんな事ないってば」
「昨日、四ノ宮さんにノートを借りて『やったー! 那月、大好き!』と言っていたはずですが、記憶違いでしょうか」
「そ、それはそうだけど。じゃあ、トキヤは大好きの中でも一番大好き!」
「よかったですね」
「本当なのに……。那月もマサも翔もレンも好きだし、本当にいい奴だと思ってるけどさ、傘を持って迎えに来てくれて一番嬉しいのはトキヤだよ」

大好きと言ったり

「そういえばさ、俺のクッションが朝から見当たらないんだけど」
「いつもあなたが抱いてるクッションなら、朝にカバーは洗濯して、中身は干してますよ」
「えー。何で洗濯しちゃうんだよ。今日は気温も低かったですし、曇っていたのでまだ乾いてないと思います」
「……昨日の夜、あなたがアイスで汚したからですが?」
 不満そうにする音也をむしろ感謝して欲しいぐらいだと強く睨むと、音也は気まずそうに視線を外して笑う。
「そうだった、ありがとうトキヤ。……だけど何か落ち着かないなー」
 それから、音也はまた左右を見やる。かと思うと、私の腰辺りで視線が止まった。……何ですか、この視線。嫌な予感がして、音也から遠ざかるように体をずらそうとするよりも早く、音也が密着してきて両腕を伸ばして私の腰を捕まえる。逃げようとしてもしっかりと捕獲されていて、腰を上げる事もできない。
「何なんですか!」
「トキヤを代わりにしようと思って」
「私が柔らかいとでも言いたいんですか?」
「うん」と答えが返ってきたら、全力で殴りましょう。けれど音也は残念だという表情をした。
「ううん、全然柔らかくない。むしろ堅い。でも、まあいっか」
「よくありません。放しなさい」
「えー、何でー? あ、ほら、CM終わったよ!」
 音也が私の腹部を叩いて、テレビに注意を促す。日向先生が友人役の俳優と会社で言葉を交わすシーンが始まった。 その間にも音也はもぞもぞと体を動かして私に擦り寄り、肩に頭を預けてくる。
「重たいので止めてください」
「大丈夫大丈夫」
 どうしてこの人はこんなに話を聞かないんですか? 聞こえていないのか、聞いていないのか知りませんが、私の意思を無視して自分の思うままに動くのはやめてほしいですね。今に始まったことではありませんが……。
 当てつけるようにため息を吐いても、音也はテレビに釘付けになっていて気にも介さない。結局私の虚しさが増しただけでした。仕方なく、音也の存在を気にしないようにしながら、テレビの中の日向先生を追う。家路へと着いた彼がため息を漏らすのを見て、釣られて更に気分が落ち込みました。
 しばらくして二度目のCMに差し掛かると、また音也が身じろぎ始め、私にまで振動が伝わってくる。
「……何なんですか。くっついているなら、せめて落ち着いて見てください」
「この体勢って落ち着かないね」
 ああ、ようやく解放されるのだと思いました。しかし音也は私の目を見据えて至って真剣に言う。
「トキヤ、一旦立って」
「立ってどうするんですか」
「それで、俺の足の間に座ってよ」 
 何を言っているのかよく分かりませんね。音也のように聞こえなかった事にしましょう。私が音也に目もくれずにチョコレートのCMを見ていると、顔が割り込んでくる。
「ねー、トキヤってば、ねーねー!」
「……お断りします」
「じゃあいいよ」
 拗ねた音也が腕を放す。これで、心の安定を得られると内心喜んだのもつかの間、音也がソファーの上に立ち上がる。突拍子もない行動をする彼を呆気に取られて見守っていると、私の背後に割り込んできて無理やり座り込んだ。
「よいしょっと……、これでよし!」
「……」
「んー、こっちの方が落ち着くなあ。テレビはちょっと見づらいけど」
 音也が両腕を私の腹の前に回して抱きつき、顎を肩に載せてくる。こんな状態で、私がリラックスしてテレビが見られると思っているんでしょうか。
「私は全く落ち着きません」
「えー? だけどさ、座ってる時にクッションとかぬいぐるみとか抱いてると落ち着かない?」
「私は抱き締められてる側なのですが」
「あ、もしかして気を遣ってくれてる? 楽にして、背もたれにしてくれていいよ」
 そういうのなら、背もたれにしてやりますよ。後で文句を言ってきても知りませんからね。心の中で忠告して、体の力を抜いて遠慮なく音也にもたれかかる。それなりに体重は掛かっているはずの彼は不平不満も口にせず、私を抱き締めたままテレビを見ていた。
 ……冬も間近になってきたこの頃は肌寒い夜が続いているので、堅い上着を一枚羽織ったとでも思っておきましょう。そうでもしないと、私の心の安定が得られません。


抱き締めたり

「自信無かったけど、やっぱりダメだったよトキヤー!」
音也が私の膝に泣きついてくる。
 駆け寄っていったものの、結局肝心のキスでかなり躊躇ってもたつき、あまりにもぎこちなく寸止めのキスをしたせいで不合格となりました。
揺れる赤色の少し硬い髪を撫でながら、ふと思いついたことがありました。ぐいと音也の顔を上げて、目を合わせる。
「音也」
「何?」
「どうにかしたいと思いませんか」
「それはもちろん思うよ!」
 隣の席に座り直した音也が力強く頷くや否や、私は微笑んで、逃さないと肩を掴んだ。
「なら、練習するしかありませんね」
「れ、練習?」
「私とキスの練習をするんです」
 大きな目が瞬きながら私の目を見つめる。最初は驚くばかりだったのが、だんだん輝きを帯びだした。
「それ、すごくいい考え!」
「お、おい、トキヤ。何言って……」
「邪魔しないでください! これは私の沽券に関わる事です」
「イッキ、少し落ち着いた方が……」
「えっ、すごく落ち着いてるよ? やっぱり練習しなくちゃ上手くなれないよね。それに、俺、トキヤとならちゃんとやれると思う!」
  音也にしてはいい事を言いますね。私も、きっと音也となら気兼ねなく演じられると思います。私は彼の手を優しく取った。
「では、私のお題の方からやり直しますよ。先ほどの演技を見ていて何か感じた事があれば教えてください」
「そうだなぁ。帰るのが名残惜しいっていう空気はよく伝わってきて、さすがだと思ったけど……。キスするってなった瞬間、表情がちょっと硬くなって、躊躇ってるのが分かったよ。俺も人の事言えないんだけどさ」
「……やはり、躊躇いが生じるのが一番の問題ですね」
 撮影の時にも、監督や女優の方に『遠慮しなくていい』と言われていたのですが、中々それが拭えず、結局何度もそのシーンを繰り返し撮影する事になってしまいました。音也となら気兼ねなく演じられると思うのですが……。
「分かりました、まずはそこに気を付けてやってみます」
 私は彼の手を優しく取って、寂しげな眼差しを送る。
「今日はこれでお別れなのがとても名残惜しいです。できる事ならこのままずっと一緒にいたいのですが、そうもいきませんね……。……音也」
 先ほどはこの瞬間、自分の心の中に躊躇が生じるのを感じた。けれど、今は演技の事だけに集中して、音也に顔を寄せた。鼻先が後僅かで触れ合う距離で止まり、瞼を閉じる。そして数秒待ち、もうこれでいいだろうと演技を終わりにしようと瞼を開けるのと同時に、音也の唇が私のものに重なった。
「んぐっ」
「何その声」
 顔を離した彼は無邪気に笑った。ほんの一秒、彼の唇に視線をやってから双眸を見据える。
「ですから、今回は実際にキスをするのではなく、本当にしているように見せられればいいんです」
「だけどさ、デビューして、ドラマに出る事になって、キスシーンを演じる事になって『じゃあ、今回は実際にキスしてくださーい!』って言われたら、見せかけだけ上手くてもしょうがないと思うんだよね。NG連発しちゃうよ」
 言葉が胸に深く突き刺さる。
「……そうですね、あなたの言う通りです」
 ここでキスが上手くなれば、演技にも躊躇いが無くなるかもしれません。頷いて見せると、音也が私の手を握りなおして指を絡めた。目を見合わせ、どちらともなく瞼を閉じて顔を寄せ合う。ガチっと音がした。
「痛っ、歯が当たった……」
「あなたが勢いよく来るからですよ」
 唇を擦ると、「ごめん」と音也が謝り、即座に「もう一回!」と立ち直る。再度、私達の唇が触れ合った。


キスもしますが、※ただし付き合っていない