1〜9P


「どっちがHAYATOになっても恨みっこなし。お互い頑張ろうぜ!」
 彼がトキヤの肩を力強く叩いた。首筋を痛めそうな勢いで叩かれたので文句を言いたかったが、その前に彼は控え室からふらりと出て行った。腹いせに今まで彼がいた場所を睨み付ける。しかしトキヤはすぐに気を取り直そうとした。この後の最終オーディションに向けて、気持ちを落ち着かせなければならない。彼に構っている暇な少しもなかった。


 あるテレビ番組の企画のために『HAYATO』というアイドルが造り上げられる事になった。『HAYATO』はコンセプトや性格が細かく記された企画書が用意された仮想の存在だ。彼が、明るく前向きにいつでも笑顔で物事に取り組むという性格――設定通りに動くためには、演じる者が必要だ。所属している劇団の関係者から勧められてトキヤが『HAYATO』のオーディションを受けると、最終オーディションまで残ることができた。ここまで来れば、後はもうひとりの候補者からHAYATOの役を勝ち取るだけだ。そうすれば、晴れてアイドルとしてデビューすることができる。歌にも力を入れるらしいHAYATOの座をトキヤはどうしても射止めたかった。
 しかし、その相手は……。
 競り合う相手が脳裏に浮かんだ瞬間、集中がまた乱れてしまった。トキヤは彼を追い出そうと頭を振り、鏡に映る自分を見据えた。
 そんなことじゃ、うまくいきませんよ。
 自分に言い聞かせ、もう一度集中しようと深呼吸をした。
 ……一十木さんの事なんて知りません。
 一十木音也。それがもうひとりのHAYATOの候補者の名前だ。年はトキヤよりひとつ下の十四歳だ。 赤い髪に赤い瞳、日に焼けた肌という、トキヤとは共通点が一つもない、対照的な風貌の男だった。これまでに会ったのは数回、オーディション会場でだけだが、性格は企画書に記載されたHAYATOそのもののように思える。それもトキヤとは正反対だ。
 その事を思うと、トキヤがこれまで必死に押さえ込んでいた弱気さが顔を覗かせた。
 私はHAYATOとは正反対……。でも一十木さんはHAYATOと同じ性格。それなら、あの人の方が……。……いえ、それでも私はここまで来たんです。正反対なキャラクターだからこそ、完璧にHAYATOになることができれば評価も高くなるはずです。だから、完璧にHAYATOを演じなければならない。そのためには……。
「トキヤ? 何でそんな暗い顔してるんだよ」
 いつの間にか控え室に戻ってきていた一十木が不思議そうにトキヤを見ていた。その右手にはペットボトルのコーラがある。どうやらそれを買いに行っていたようだ。相手にしていられないと顔を背けたが、近寄って来た一十木がひとりで騒ぎ始めた。
「あっ、もしかして緊張してる? へー! トキヤも緊張したりするんだ。クールに見えるから意外」
「別に緊張など」
「実は、俺もちょっと緊張してる」
 言い当てられた心情を否定するが、一十木はまったく聞かずに声を潜めた。緊張に無縁そうな彼も同じなのだと意外に感じて、親しみを持つのと同時に彼は明るく笑った。
「でも、それ以上にワクワクしてるんだ。早く始まらないかなー」
「……開始時間までまだ三十分以上あります」
 一十木の発言を聞いた瞬時に彼への親しみが消え去り、トキヤは素っ気なく答えた。ライバルに親しみなど持てる訳がない。
 今日は最終オーディションですよ。これで全てが決まるんですよ。それなのに緊張より高揚の方が上回っているなんて信じられません。自分が合格するに決まっていると思っているんですか?
「しかも順番はトキヤの方が先だもんな」
 トキヤは頬杖を突いて一十木を横目で見た。
「なに?」
「名前で呼ぶの、止めてくれませんか」
「え、どうして?」
 大して話をしたことがない、知人とも呼べないどころかライバルである相手に親しげに名前を呼ばれるのは落ち着かないから。世間の大半はそう思うはずだが、一十木は心底不思議そうな顔をする。
「あ、トキヤも俺のこと名前で呼んでよ」
 むしろトキヤにもそうするように求めてきた。話にならないと呆れてそっぽを向く。
「呼びません」
「ええっ、どうしてだよ! ほらほら、『音也』って呼んでみてってば」
「……、オーディションが終わったらそう呼びます」
「やったぁ!」
 オーディションさえ終わってしまえば、結果はどうあれ彼と接する機会もなくなる。それを見越してトキヤが妥協してみせれば、一十木はころりと騙されて喜んだ。黒い噂の絶えない芸能界でやっていけるかのかと、勝手に心配になるほどの純粋さだ。
「それにしても暇だなぁ。始まるまでまだ時間あるし、歌でも歌ってよっと」
 上機嫌なまま、彼は先日発売された月宮林檎の歌を口ずさみ出した。トキヤは露骨に嘆息したが、一十木は気づきもしない。
 またですか。控え室にひとりきりならまだしも、私がいるんですから自重してほしいものですね。
 これまでにも、オーディションの控え室で彼は周りからの奇怪な視線も気にせずに歌を歌っていた。流行りの歌を歌うこともあれば、シャイニング早乙女の大ヒット曲『愛故に』を歌いもした。また、「わっくわっくすーるよー」などと自分の心境を表す即興の歌も口ずさんでいた。
 それを聞いて、間違いなく自分の歌の方が優れていると判断した。きっと、他の誰がふたりの歌を聞き比べてもそう評価するだろう。それでも、心から楽しそうな歌声を聞いていると、あまり正直に認めたくはないものの、心が惹かれるのを感じていた。しかし、それでも最終オーディションが控えているとなれば話は別だ。
 苛立ちを倍増させながら席を立った。しばらく外で時間を潰そうと思ったのだ。それなのに一十木が腕を掴んできた。
「なあなあ、トキヤも一緒に歌おうぜ!」
「何を馬鹿な事言っているんですか。オーディションが控えているので喉を痛めたくありません」
「傷める程は歌わないって! そうだなぁ……、『愛故に』とかは?」
「ですから」
「はい、いっせーのーでっ」
 勝手に一十木が歌い出す。本当に人の話を聞かない。トキヤはつくづく呆れて黙り込んだ。すると彼が歌いつつも目で「ほら早く」と合図を送ってくるし、腕もぐいぐいと引っ張られる。
 ……一曲歌って、彼の気を済ませる方が早そうですね。
 そう計算し、タイミングを見計らって途中から声を重ねた。途端に一十木は顔を輝かせる。彼の歌声は原曲の音程やリズムから外れる事があって合わせづらかったが、それでも最後まで歌い続けた。自分の好きなように歌う彼はどうして楽譜通りに歌わないのかともどかしい反面、こんな風に歌う者もいるんだと新鮮だった。
「これでいいですか?」
 彼の手を解いてトキヤは訊ねた。けれど返答はない。その代わり、一十木は目を煌めかせてトキヤを見つめている。
 一体何なんですか。
 そんな視線を向けられる事に慣れていなくて、一歩後ずさったのと同じタイミングで一十木が抱きついてきた。
「なっ……」
「うわー! トキヤの歌って初めて聞いたけど、超うまいんだね! 俺感動しちゃった!」
「……あ、ありがとうございます」
「もう一曲! もう一曲歌おう! えーと、次はケン王の主題歌!」
 一十木が少し体を離して、興奮した口ぶりで言う。
「あの、私はもう」
 トキヤがそう言った時にはもう彼は歌い始めていた。
 この人はどうしてこんなにも人の話を聞かないんですか? 聞く気がないんですか? 歌を誉めてくれたのは嬉しいんですけど、私はもう……。
 もう歌わないとトキヤは決め、彼に背を向けて元の場所に座った。けれど彼も隣に腰掛けて歌い続ける。ご丁寧に、サビでは拳を突き上げる振り付きだ。
 トキヤが沈黙を続けていると、声量は次第に大きくなり、視線も一切逸らされなくなる。ついに観念し、二番のサビからはトキヤも歌った。また嬉しそうにする一十木から顔を背ける。
 この曲で……この曲で終わりです!
 その決意は何度も繰り返され、スタッフがトキヤを呼びに来た時にようやく終わった。慌てて時間を確認すれば、もうオーディションの開始時間だった。
「トキヤっ、頑張れよ!」
「言われなくても分かっています」
 一十木が激励するように背を叩いた。トキヤは素っ気なく答え、スタッフと共に廊下に出る。いつの間にか緊張が解けていることに気がつき、控え室を振り返った。
 


 最終オーディションにトキヤは全力を出し切って挑んだ。披露した歌も演技も、質問への受け答えも十分すぎる程に『HAYATO』らしかったはずだ。何一つ後悔していない。
 それでも、後日プロデューサーから電話で告げられた結果は「悪いんだけど……」で始まるものだった。
「それでは、一十木さんがHAYATOになるんですね」
 ソファーに浅く座り、背筋を伸ばしたトキヤは自分の膝を眺めた。満足のいくオーディションだったものの、信じられない結果ではなかった。一十木がそれを上回っただけの話だ。
「そうだね」
「……分かりました」
 彼の無邪気な表情を思い浮かべながら、プロデューサーに問いかけた。
「一十木さんの方がHAYATOらしかったから……という理由ですか?」
「そんなところかな。でも、一ノ瀬君も落ち着いた性格なのに、本当にHAYATOみたいに振るまえててすごくよかったよ。もし一十木君がオーディションに参加してなかったら、間違いなく一ノ瀬君にお願いしてたんだけどなぁ」
 そう言われても何の慰めにもならない。
 ――もし一十木がいなければ自分がHAYATOに選ばれていた。そんな仮定の世界について考えても不毛なだけだ。
 トキヤはそっと息を漏らした。彼が話し続ける。
「次に何かあれば、声掛けるから」
「……はい、ありがとうございました」
 声を掛けられる事はきっとないと諦観しながら通話を切る。
 カーテンが開いたままの窓からすっかり暗くなっている外が見えた。窓辺に近づけば、ガラスにくっきりと自分が映る。トキヤはそれを鏡のようにして、「おはやっほー」と呟き微笑んだ。しかしすぐに肩を落として息を吐く。彼とは似ても似つかぬ表情にしかならなかったのだ。
 ガラスに額を押し付けると外の冷気が伝わってきた。もう三月なのにまだ暖かくならない。桜が咲くのもきっともう少し先の話だ。
 私は……アイドルになれるんでしょうか。
 トキヤの心にそんな不安がよぎった。
 後もう少しでアイドルになれたのに、取り逃してしまった。これまでにも何度かドラマの役のオーディションを受けたが、どれも失敗している。
 暗い気持ちで、新月の影響でいつもよりはっきりと見える星を上目で眺めた。
 アイドルに向いているのは一十木さんのような明るい人でしょう。笑っただけで、歌っただけで、人を惹きつけるような人。私にそれだけの魅力はありません。もう、辞めてしまった方がいいんでしょうか。


 
 トキヤがそんな迷いを拭いきれない間に、一十木音也はHAYATOという名で芸能界にデビューした。最初は企画書に書かれていた番組だけでしか姿を見かけなかった。けれど彼はすぐに人気を得て、メディアへの露出を増やしていった。ある朝のニュース番組の中に設けられた『おはやっほーニュース』というコーナーで、派手な赤いストライプのジャケットを羽織ったHAYATOがキャスターをするようになったのも、デビューからあっという間の話だった。
「おはやっほー! 全国一千万のHAYATOファンのみんな、元気かなっ?」
 HAYATOがいつもの決まり文句を口にしてポーズを決める。
「みんな、歌は好き? やっぱり大好きだよね、俺もすっごく好きなんだぁ!」
 一十木音也は年頃の少年らしい口調だったが、HAYATOはそれより幾分柔らかい喋り方をする。
「今日みんなに聞いてほしい歌は『七色のコンパス』! えっ、それって誰の歌かって? やだなぁー、俺のファーストシングルだよっ!」
 CDを顔の横に掲げるHAYATOは心から幸せそうだ。あれだけ楽しそうに歌っていたのだから当然の反応だろう。
「記念すべきファーストシングルが本日発売って言うわけで、CM明けから特別に生ライブをしちゃうよ! じゃあみんな、よーく聴いてねっ」
 トキヤは急遽番組を録画しはじめる。HAYATOとしての歌声を聞くのは初めてだ。まるで自分が本番を迎えるかのように、トキヤの心臓の鼓動はいつもより早まっていた。
 CMが空けた時にはもう一時間も待っていた気分だった。HAYATOはいつものセットから移動してステージに立っている。彼が優しげに微笑み、そして歌い出す。この数ヶ月でレッスンを受けたのだろう。以前聞いた時よりもずっとうまくなっていた。普段より少し甘い声で語りかけるように歌う彼から、一瞬も気を逸らす事ができなかった。
 オーディションの控え室で歌っていた時にはまだトキヤの隣にいた彼が、今ではもう先の場所にいる。
 そう思うと、揺らいで消えかけていた火が瞬時にして再燃した。
 歌いたい。アイドルになりたい。そして、彼の背中を追いかけたい。このまま負けていたくない。
 トキヤはHAYATOを見つめ、今度こそアイドルになると強く決意した。
 私はもう迷ったり、諦めたりしません。
 トキヤのその誓いを導くような歌詞を歌いあげると、HAYATOは照れたように笑った。
「……えへへ、俺の歌どうだったかな? こうやって歌うのは初めてだからすごく緊張しちゃったよ。HAYATOの『七色のコンパス』は本日発売! CDショップで見かけたらよろしくねっ。それじゃあ、今日はこの辺で! ばいばーいっ」

 その日の学校の帰りに、CDショップに寄って新曲コーナーを覗いた。HAYATOの『七色のコンパス』は一番目立つ場所に陳列されていて、トキヤの目の前でも女子高生が買っていく。彼女に続くのはなんだか気恥ずかしくて、数分の間意味もなく辺りをうろうろとしたが、結局はHAYATOのCDを手にレジへと向かった。レジを打つ女性店員に笑われているような気がして顔が熱くなった。
 会計を済ませて足早に家へと帰り、着替えもせずにCDコンポでの再生を始める。すると今朝より少し高い声でHAYATOが歌い出す。トキヤは歌詞カードで歌詞を追いながら、歌声に耳を澄ました。やはり歌は格段に上手くなっている。そして相変わらずトキヤの心を揺さぶるものだった。瞼を閉じれば、彼が目の前で歌っている気がした。
 一度曲が終わったが、また初めから再生する。今度はトキヤも合わせて歌った。あの控え室での事が鮮明に浮かぶ。あれからたったの数ヶ月でここまで差がついてしまった。テレビにレギュラーで出演していてCDデビューもしたアイドルと、ただの学生だ。
 彼と同じ道を歩きたい。そうして後を追って、並んで、抜き去りたい。HAYATOは彼に明け渡したものの、トップアイドルの座はいつの日か手に入れてみせる。
 胸に手を当てて、そんな熱を込めて歌いあげた。
「これ、どうしましょう」
 それからHAYATOによく似合う明るい曲調のカップリング曲もじっくりと聞いてから、購入時に特典として付いてきたB2サイズのポスターを広げた。HAYATOがカメラを見つめて人好きのする微笑みを浮かべているのをしげしげと見つめる。
 ポスター自体に興味はありませんが、……捨てるのも何だかしのびないですね。
 トキヤはポスターを丸め、入っていた袋へと戻す。オーディション会場での彼をぼんやりと思い返していると、彼が『愛故に』を歌っていた事を思い出した。その曲を歌うシャイニング早乙女が設立したアイドル育成の専門学校のことも。
 トキヤは急いでパソコンを起動し、インターネットで専門学校の情報を調べる。
 早乙女学園――一年制の学校でアイドルコースと作曲家コースのふたつがあり、それぞれの生徒がペアを組む。そして作りあげた曲を卒業時に行われるオーディションで歌い、その結果によってアイドルや作曲家としてデビューできるようだ。著名な卒業生のリストには、トキヤがよくCDを聴いたり、テレビで姿を見かける者たちの名前がたくさん連なっていた。
 迷う理由はどこにもなかった。
 この学園に通えば、きっとHAYATOに近づくことができる。
 そう確信したトキヤが早乙女学園の受験を決めて、歌や演技のレッスンに励む間にも、HAYATOはますます人気を得て活躍の場を広げていった。バラエティー番組やドラマ、CM、雑誌のグラビア、ラジオなどいろんな場所に彼はいた。トキヤは可能な限りそれらを追い、発売されたCDも全て買った。
 ……HAYATOがどんな活動をしているかを知っておかないと、私がデビューした時にどうやって後を追えばいいか分からないじゃないですか。
 部屋に溜まっていくHAYATO関連のCDやDVD、書籍に対し、トキヤは自分に言い訳をした。他のものは簡単に捨てて片づけられても、これらだけはひとつも手放すことができなかった。結局、まとめて入れた段ボールを人目につかない場所――寝室のクローゼットにしまうことにした。
 それから、HAYATOの初主演映画である『恋するウキウキエンジェル』も恥を忍んで映画館へひとりで観に行った。チケットカウンターでタイトルを言うのが恥ずかしくて「あの、HAYATOが主演の……」と言ってチケットを買った。さらにシアター内では、同年代の少女に指を指されている気がして逃げ出したくなったが、それを堪えて映画を観た。
 話自体はベタな展開で、映画のあらすじだけでこの結末は予想できていた。それでも、HAYATOが演じる天使が恋のために人間になった終盤のシーンでは、不覚にも涙が出そうだった。HAYATOの演技は、歌と同じようにどこか拙さがあったものの、人を惹き付け、物語の魅力を最大限に生かす演技だった。
 プロデューサー達にはこれが見えていたんでしょうか。だから、彼を選んだのでしょうか。……でも、私もきっと。
 エンドロールを眺めて約一年前のオーディションを振り返った時には、トキヤの早乙女学園への入学は決定していた。
 学園では、成績優秀者が集められるSクラスにトキヤは所属することになった。そして、作曲家コースの七海春歌という少女とペアを組んだ。彼女は普段は引っ込み思案で大人しい性格をしているが、作る曲はHAYATOの歌と同じぐらいにトキヤの心を揺さぶるものだった。彼女となら卒業オーディションで優勝できると予感していた。



21〜26P




 しかし三月になると、トキヤはその噂が本物だと知る事になった。
 シャイニング事務所では、早乙女学園の卒業オーディションの翌日にオーディション合格者達と、所属アイドルや作曲家達との顔合わせが行われる。早乙女が何人かの合格者を紹介していき、最後は今年度の優勝者の発表だけだ。
「先に言っておきマース! これはドッキリではありまセーン!」
 早乙女の前置きを聞き、トキヤは隣にいる春歌と目を合わせた。
 驚くような人物が優勝者? しかし、まだ学園の生徒ならそこまで知名度は無いはずですが。
 それに、メディアで名前を聞いたことがある者はもう既に紹介が済んでいる。トキヤにはそれが誰なのか皆目見当も付かない。
「では、ヨロシク!」
 早乙女が部屋の一部を覆っていたカーテンを引き、その姿が露わになった。
「初めまして、一十木音也です!」
 赤い髪に赤い瞳、日に少し焼けた肌で人懐っこい笑みを浮かべた卒業オーディションの優勝者――HAYATOはそう名乗った。
 トキヤは呆然としてHAYATOを見つめる。視線はすぐに合った。彼はいつものように手を振った。
 何が起こっているのかが分からない。周囲は大きくざわついていて、春歌も「HAYATO様……?」と呟く。
 どうして、どうしてあなたがここにいるんですか。何故トップシークレットであるはずの本名を名乗るんですか。ドッキリではない? では、彼は本当に卒業オーディションで優勝した? 学園に通っていた? でもHAYATOはずっと活動していた……。
 頭の中は疑問が埋め尽くす。足は痺れていた。手が震えている。
 HAYATOはもう一度トキヤを見てから、なおもざわめく人々を見渡して語りかける。
「きっとみなさん、『どうしてHAYATOがここに?』って思ってると思います。……実は、HAYATOは仮想のアイドルなんです。HAYATOにはテレビ番組の為の設定が決められていて、俺はその通りにHAYATOをずっと演じていたんです」
 彼の視線がトキヤに固定された。トキヤだけに向かって話しているようだった。
「……そんなHAYATOを辞めて、俺自身、一十木音也としてデビューし直したくって、この一年間学園に通っていました。それでちゃんとオーディションにも優勝できて、今ここにいます」
 いつしか聞いたHAYATOが引退するという噂が脳裏によぎった。あの噂は本当だったのだ。噂を信じるあの俳優を馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、トキヤの方が馬鹿だったという訳だ。
「明日、HAYATOの引退を発表します。向こうの事務所との話も付いてます。それからは一十木音也として、また新人から頑張っていくつもりです。ええっと……とにかくこれからよろしくお願いします!」
 彼はトキヤに微笑みかけたが、ちっとも笑えなかった。天上でずっと輝いてトキヤを導いていた星は消えてしまった。

 その場は解散になり、隣にいる春歌が何かを話しているようだったが聞こえない。
 明日HAYATOが引退する? 一十木音也としてデビューする? 早乙女学園に通っていた?
 どれだけ彼の言った事を反芻しても、一つも理解できない。彼のいる理由を説明されたが、かえって謎は深まるばかりだった。
「トキヤ、春歌!」
「HAYA……一十木さん」
 春歌が後ろを振り返り、そう言った。トキヤも振り返れば、彼が後を追いかけて来ていた。
「春歌、久しぶりっ。元気だった?」
「わ、私の事覚えていらしたんですか?」
「もちろん、ずっと覚えてたよ! 春歌の曲、よく聞いてたんだ」
 頬を染める春歌に微笑んだ彼はトキヤを見て得意げな表情に変わった。
「トキヤ、俺が半年前からずっと話した事ってこれだったんだ」
 そして、誇らしげに言ってのける。
 彼のそんな態度を見て、混乱していた頭の熱が急激に冷めていった。代わりにふつふつと怒りがたぎってくる。よくもそんな態度がとれるものだ。トキヤが「すごいですね」と驚きながらも喜ぶと思っているのだろうか。
「HAYATOを辞める為に早乙女学園に通っている。私にそう打ち明けたかったんですか?」
 普段よりかなり低い声で問いかけても、彼は全く動じない。代わりに春歌がうろたえながらトキヤと彼を見比べる。
「そうそう。HAYATOの双子の弟って言って通ってたんだぜ。バレるんじゃないかとひやひやしたよ」
 そんな事は心底どうだってよかった。バレて騒動にでもなればよかったとすら思う。
 彼の告白はトキヤの興味をちっとも煽らず、怒りを増長させるだけだ。
「これからはトキヤの後輩としてまた頑張るから、だから改めてよろしくっ!」
 彼がトキヤの手を握ろうとしたが大きく振り払った。丸い目を瞬かせる。
「ト、トキヤ?」
「一ノ瀬さんっ」
 慌てふためく春歌を見て、大きく息を吐いて僅かでも気持ちを落ち着けようとする。
「すみませんが、ふたりにしてください」
「……分かりました」
 彼女はそうしていいものかしばらく悩んでいたが、結局頷き、ふたりを気にしながらも立ち去る。その姿が見えなくなってから、「ついてきなさい」と彼を事務所の空いた会議室に連れて行った。
「もしかして、なんか怒ってる?」
 適当な椅子に腰掛けた彼は戸惑いがちに言った。トキヤは彼の前に立ち、侮蔑の視線を向けた。
「あなた、よくもそんな身勝手な真似ができますね」
「えっ?」
「HAYATOの人気がどの程度のものなのか、あなたならよく知っているでしょう」
 どれだけ世間から愛されて求められているアイドルなのか、HAYATOを演じ続けていた彼なら身を持って知っているはずだ。
 彼はぐっと言葉に詰まり、気まずそうな視線がぶれる。
「それは、分かってるけど」
「そのHAYATOを演じるのが嫌になったから捨てるなんて、身勝手極まりないですよ」
「HAYATOが嫌になったんじゃない!」
 勢いよく立ち上がって頭を振る彼をトキヤは腕を組んで見やる。 
 HAYATOが嫌になったのでなければ、わざわざ学園に通ってまでやり直そうとはしないだろう。口でなら何とでも言える。
「ただ、俺は歌が歌いたかったんだ」
「歌?」
「もうずっとHAYATOは歌ってなかった。これからも、きっと歌えなかった。俺がどれだけ歌いたいって事務所に言っても、『今はテレビに出ている方がいい』って言われるだけだった」
「デビューして四年しか経っていないアイドルが、自分の望むままに仕事が得られるはずが無いでしょう」
 あまりにも甘い考えだ。アイドルには小さな仕事すら得られず、僅かな数のファンしかいない者が掃いて捨てるほどいる。そんな中でHAYATOはたくさんの人から好かれ、数多くの仕事をしていた。それでも、今は人気でも、来年には飽きられて見向きもされないかもしれない。彼が少しでも長生きする為には、ファンの望むものを表現しなければならない。HAYATOの事務所はそれが分かっていたからそう言ったのだと簡単に分かる。
 彼が喋れば喋るほど、腹立たしさが増していく。
「そうかもしれないけど! 俺はどうしても歌いたかったんだ」
「後数年これまでの人気が続いて、立場が確立できたならいずれ少しくらいなら歌えたと思いますが」
「後二年も三年も待ちたくなかった! 俺はすぐに歌いたかったんだよ! だって……!」
「どんな言い訳をいくらしたところで、ただのファンへの裏切り行為でしかありません。自分ひとりだけの為に、多くのファンの期待を切り捨てるんです。七海君だってHAYATOのファンだったんですよ」
 ただの我が儘を盾にしようとするのを遮り、トキヤは現実を突きつけた。荒れ狂う激情を収めるために、彼を少しでも多く傷つけたくて堪らない。望み通り、彼は傷ついた表情で弱々しく答える。
「……また俺を……、今度は一十木音也を好きになってもらうだけだよ」
「一度裏切ったあなたにどれだけの人が付いて行くと思うんですか。あなたのしたことは間違っています」
「すぐに『これでよかった』って思ってもらえるようにするよ! トキヤにだって、絶対そう思ってもらえるようにする!」
 もっと大きな傷を付けてやりたかったが、彼は反発してトキヤに訴えかける。本当に自分勝手なことを言う彼の顔など、もう一瞬たりとも見たくない。背を向けてドアへと歩き出す。
「もう聞きたくありません。あなたを心底見損ないました」
「トキヤ!」
「歌が歌えなければ、ここもどうせすぐに辞めるんでしょう? なら、いっそ今の内に辞めてください」
「俺は絶対に辞めない!」
「あの事務所は辞めたじゃないですか」
 吐き捨てるように言って、部屋を出たトキヤはドアを激しく閉めた。
 怒りで胸が熱かった。こんなに怒り、失望したのは人生で初めてだ。彼がこれほどまでに馬鹿な男だとは思っていなかった。怒りで目頭がじんとする。
 今朝見たおはやっほーニュースでは、HAYATOはなんら変わりなく天真爛漫にキャスターを勤めていた。この一年間もずっとそうだった。なのに、彼はその裏でHAYATOを辞めるために学園に通っていたのだ。しかもそれをまるで悪いことだと思わずにトキヤに打ち明けたがっていた。
 トキヤは事務所を出て、寮へと向かった。冷たい夜風が吹き、頬が冷える。雲一つない空だが月は見あたらない。新月だ。
 ……あの夜みたいですね。
 HAYATOの最終オーディションの結果連絡を受けた夜を思い出し、トキヤは唇を歪めた。あの夜、彼は自分がHAYATOに選ばれたことに両手を上げて喜んだだろう。上機嫌で歌も歌っただろう。それからたった四年で――学園に通うことを決意したのは三年ともっと前だろう、HAYATOを辞めたいと自分が考えているなど夢にも思わなかったはずだ。トキヤだってこんな事になるとは予想だにしていなかった。彼はずっとHAYATOなのだと無意識に信じていた。引退の噂だって、人気を妬んだ者が作った馬鹿げた話だと少しも信じなかった。
 自分の部屋に帰ると、トキヤはすぐに寝室のクローゼットを開けた。箱の角の方に小さな小さな文字で『HYT』と書いてあるいくつかの段ボールが片隅に寄せられて積まれている。一番上のものからファイルを取り出して開く。途端にHAYATOが微笑んだ。テレビ雑誌の表紙を飾るHAYATOだ。ファイルをめくれば、次々とHAYATOのインタビュー記事の切り抜きやグラビアが現れる。トキヤは無表情でそれを見つめる。
 今なら認められる。好きでした。その背中を追いかけたくなるほど、一緒に歌えば笑顔になってしまうほど、HAYATOが好きでした。
 ……それなのに、あの男はHAYATOを手放すことを選んだ。
 トキヤは衝動的にファイルを持っていた腕を振り上げた。が、寸でのところで動きが制止する。『七色のコンパス』を聞いた時の事や学園で共演した時の事が頭によぎった。
 結局ファイルは乱雑な扱いで段ボールに入れ、それも元の場所に戻した。
 明日、引退をどう発表するつもりなんでしょうね。
 『全国一千万』のファンが悲しむだろうなとトキヤは他人事のように思った。




27〜29P




「社長、お呼びでしょうか」
 早乙女に話があると呼ばれたトキヤは社長室を訪れた。
「よく来ました! どうぞ座ってくだサーイ!」
「失礼します、それでお話というのは?」
「もう少し待ってくだサーイ!」
「はあ……」
 何を待つのだとトキヤが眉をひそめるのと同時にドアがノックされた。
「ドーゾ! じゃんじゃん入りなサーイ!」
「失礼しまーす」
 軽い声と共に入室してきたのは一十木だった。彼の顔を見たトキヤは露骨に嫌な表情になった。いつもならすぐさまこの場を離れているところだが、早乙女の手前ではそれもできない。
「Mr.イットキも座ってちょ!」
 早乙女に促され、一十木は躊躇ってから右隣に座る。トキヤはぎりぎりまでソファーの左端に詰めた。
「社長、話ってなに? いい話?」
「もちろんいい話デース!」
 自信満々に早乙女が言うが、トキヤには悪い予感しかしなかった。
「YOU達に映画に出てもらいマース! しかも! Mr.イチノセは主演デース! 初めてデスネ、オメデットー!」
「……そうですか」
 映画の主演に決まったというのに、気分は落ち込んでいた。トキヤのそんな様子に気づきながらも早乙女は陽気に話し続ける。
「主役のMr.イチノセは明るく無邪気な役を演じてもらいマース! そしてMr.イットキは物静かなクールガイ!」
「えっ? その配役って逆じゃなくて?」
 一十木が驚いて身を乗り出す。トキヤは少しも反応を示さなかったが、内心では首を傾げていた。事務所に所属してからこれまでにドラマや映画で演じた役はどれもトキヤと似通った性格だった。
「ノンノン! これで問題ありまセーン! Mr.イチノセ、YOUはずーっとクールな役を演じてきましたネ?」
「ええ、その通りです」
「そんなYOUが太陽のように明るい役を演じたらファンはどーう思うデショウ!」
「そりゃあ、みんなビックリするに決まってるよ。『えー、トキヤがこんな役なの〜?』って」
「では、HAYATOのイメージがまだまだ根強いMr.イットキがクールな役を演じれば?」
「それもやっぱり『あのHAYATOだった音也がクールな役やるんだ〜』って思われるんじゃない?」
「その通りデース! まさかの配役にファンはビックリ仰天! BUT、人は意外なギャップに弱いモノ……」
 早乙女が勢いよくトキヤを指さすが、鼻先に突きつけられたそれを手で払いのけた。
「YOU達がちゃーんとイメージと正反対の役を演じられれば、すぐに『これも結構いけるカモー! むしろちょーーーステキ!』となりマース!」
「社長の仰ることはもっともです。この配役も、演技の幅を広げることで、従来のイメージを覆し、ファンをより魅了する為だと分かりました」
 そう言いつつもトキヤは腕を組み、隣の一十木を睨んだ。
「しかし、こんないい加減な男と共演などしたくありません。この男を役から下ろしてください」
「……YOUはデビューしてまだ二年なのに、ずいぶんとワガママデスネー?」
 言葉に詰まって顔を背ける。
 軽い口調ではあるが早乙女の忠告であることはすぐに分かった。これ以上食い下がれば痛い目を見るだろう。
「……分かりました、謹んで引き受けます」
「いい子デース! Mr.イットキももちろんオッケー?」
「……はい」
「オッケー! ではこれが台本デース! 撮影スケジュールは連絡を待つように、以上!」
 渡された台本の表紙にはタイトルと「一ノ瀬トキヤ」「一十木音也」と印刷されている。トキヤ達が何と言おうと聞くつもりはなかったようだ。
 映画の撮影期間は平均で一ヶ月から二ヶ月程度。その間、徹底的に避けていた一十木と顔を合わせなければならないと思うとため息が漏れた。初主演が決まったというのに心から喜びは味わえなかった。


 目を通した台本のあらすじは、男子高校生ふたりがユニットを組み学園祭の舞台で歌うというものだった。トキヤが演じる一村(いちむら)トモキは明るく無邪気な性格だ。
 トモキは元々バンドを組んでいたが、彼の音楽への情熱に他のメンバーがついていけずに離散してしまう。落ち込むトモキだったが、ある日立ち入り禁止である屋上からギターの音が聞こえてきて思わず足を踏み入れる。そこで一十木が演じる一橋桜太(ひとつばしおうた)がギターの弾き語りをしている姿を見て、今度は彼と組もうと決意し勧誘する。最初は桜太はトモキの誘いを断り続けた。
 しかしトモキがふたりで歌おうと作った曲を歌ってみせると、ついに桜太が折れた。ふたりはツインボーカル・ツインギターのユニットを組み、学園祭でのライブを目標に練習に励み出す。
 台本を読み終え、トキヤは「……桜太、ボクとユニット組んでよ」と台詞を読み上げた。しかし地声のままではどうにもキャラに合っていないように思える。今度は高いトーンで言ったが不自然にしか感じられず、声の高低や細かな発音を調整してみたものの納得いかない。
 これはいつもより入念な役作りが必要ですね……。
 明るく無邪気で前向きな性格のトモキはHAYATOのような性格だと感じた。それなら、元よりそんな性格で、さらにHAYATOを演じていた一十木にトモキへの解釈を聞くのが役作りの参考になるだろう。
「……」
 しかし、それを分かっていながらトキヤは結局ひとりで台本をもう一度読み返すだけだった。少しでも一十木に頼るような事はしたくなかった。彼がHAYATOのことを語るのを聞きたくなかった。
 それから……。
 トモキと桜太が劇中で歌う曲は映画の主題歌でもあると書かれている。作曲は春歌だが、作詞はトモキがする事に合わせてトキヤに任されるようだ。トキヤは元来作詞に時間が掛かるタイプだった。一十木と歌う曲となると更に難しくなるだろう。前途多難になりそうだと憂鬱になった。