MAKE YOUR HAPPY!
そろそろですね。
漫画が閉じる音と「面白かったー」と言う声が聞こえて、トキヤがそう予感した瞬間に背後から名前を呼ばれた。
「トーキヤ」
間延びした音也の声にトキヤは振り向かないままそっと嘆息した。
自分が漫画を読み終わったからと言って、いちいちこちらに構ってくるのは止めてほしい。
「ねっ、この漫画ちょー面白かったよ! トキヤも読む? あ、でもこれ五巻なんだ。読むなら最初からがいいよね! だから、最初から貸すね。……そういえば翔に貸してるんだった。ごめん、翔が返してくれるまで待っててね!」
トキヤは「貸してください」とも「是非とも読みたいですね」とも一言も言っていないのに、音也は勝手に話を進めている。
ここでトキヤが振り向いて、音也に「結構です。漫画は読みませんから。あなたも漫画などいい加減に卒業したらどうです?」と言ったところで、「えー、でもでもこの漫画すっごく面白いんだよ! ケン王がさあ……」と全く聞いていないことを語り出すだろう。
しかし、構わなければそのうち「ま、いっかー」と諦めるのを知っている。
トキヤは無視を決め込み、手元の小説に目を落とす。
だが、足音がして、それはこちらへと近づいてきていた。
「トキヤは今何読んでるの?」
すぐ後ろで音也の声が聞こえた。
それと同時にトキヤの両肩に手を置いて本を覗き込んでくる。
相変わらず距離が近い男だ。
肩から感じる音也の体温が熱い。
ふわりと音也の匂いがした。
「わっ、また小説ー? 俺、小説読むのって苦手なんだー。小学校の頃とかさあ、夏休みの宿題に読書感想文ってあったじゃん。毎年苦労したんだよねー」
読書に集中したいのに、耳元でこうも喚かれては集中しようがない。
背後の音也の存在が気になって仕方ない中、なんとか読書を続けようとするが、音也の手がトキヤの髪に触れて撫でてくる。
脈絡もない行動のせいか心臓が大きく跳ねた。
音也の事だからその仕草には何の意味もなく、ただ手持ち無沙汰をどうにかしたかっただけに違いない。
そう考えても、心臓はまだ大きく跳ねている。
「トキヤはどうだった? きっと毎年、賞とかもらってたんじゃない? トキヤってすごいもんなー」
「……音也」
その指が毛先をくるくると巻き取り始めたあたりで我慢の限界が来て、トキヤはつい口を開いてしまった。
普段より低い声で名前を呼んでいるのに、音也は普段の笑みを浮かべる。
「なに?」
「髪に触るのは止めてください」
「ああ、ごめん」
音也はそう言うが、手はまだトキヤの髪に触れたままだ。
今度は撫でるようにしてくる。
いつもの振る舞いに似合わず、優しい手付きだ。
何故か心臓がより大きく鼓動を打った。
「でもさあ、トキヤの髪ってサラサラだね。俺の髪硬いからちょっと羨ましい」
「……たった今謝罪したばかりなのに、何故まだ髪を触ってるんですか?」
「あっ、ごめんごめん」
音也がようやく一歩離れて、「もう触らないよ」とでも言うように両手を肩まで挙げてみせる。
彼に聞かせて少しでも反省させようと、トキヤは大きくため息を吐いてみせた。
「あっ、トキヤ!」
突然音也が大声を上げる。
何かと思っていると、音也が右手でトキヤの口を塞いだ。
「幸せ逃げちゃうよ!!」
彼はひどく慌てた様で意味の分からない事を言うが、右手が鼻まで塞いでいて呼吸ができないのでそれどころではない。
トキヤが両手でその手を引きはがそうともがけばようやく手が離れた。
「大丈夫?」
「誰のせいだと思っているんです……」
大きく呼吸をしながら責めると、音也もさすがに申し訳なさそうな表情をした。
まるで叱られた犬のようだ。
「でも、トキヤの幸せがため息に乗って逃げちゃうと思って」
「……『ため息を吐くと幸せが逃げる』、ですか?」
「そうそう。トキヤってしょっちゅうため息吐いてるじゃん、だからいつもここにシワ作ってるんだよ」
音也が眉間を指して、難しい顔をしてみせる。
「余計なお世話です。それに、そんなのは迷信です」
トキヤが顔を背けるが、音也はそれでも顔を覗いてくる。
先程より近づく距離にトキヤは戸惑った。
至近距離から音也に真っすぐに見つめられて、息が詰まる。
「そうかなぁ。暗い気分の時にため息吐いたら、もっと暗くならない?」
食い下がる音也に息を漏らしたくなるが、また口を塞がれては堪らないと思い、代わりに頭を振った。
「……そもそも、私がため息を吐くのは音也のせいです。あなたの言動に呆れているから、ため息を吐いて眉間にシワを寄せてしまうんです。大人しく静かにしていてくれれば、私だって無闇にため息は吐きません」
「えっ、俺のせい? 俺のせいで、トキヤはため息吐いてるの?」
「そうですよ」
「……」
頷いてみせれば、音也がショックを受けた顔で黙り込む。
そうすればようやく部屋に沈黙が訪れた。
目を伏せて、眉尻を下げている音也を見て言いすぎたかもしれないと心が少し痛んだ。
謝るべきかと様子を窺っていると、音也が何かを思いついた表情を浮かべた。
つい先ほどとは一転して、わくわくしたような笑顔を浮かべている。
「じゃあさじゃあさ!」
「今度は何です……」
彼が更に顔を寄せてきたので堪らずに顔を背けるが、顎を掴まれて強制的に向き合わされる。
「俺、大人しくしたり静かにしてるのって苦手なんだ。だから、これからもきっとトキヤにいっぱいため息吐かせると思う」
「……そんな宣言はしないでください」
反省の色を見せない発言に呆れると、音也はそれに構わずにトキヤの左手を取った。
更に両手で包むように手を握られ、伝わってくる暖かな体温と少し硬い手のひらの感触にトキヤは息を呑む。
「だから、俺がその分トキヤを幸せにしてあげる!」
そして、音也は満面の笑みでそう言った。
「……はい?」
「トキヤがため息吐いて幸せがひとつ逃げていったら、俺がひとつ……うーん、やっぱりふたつ! ふたつ幸せにしてあげる! そうすれば、トキヤも難しい顔しなくていいよね?」
音也の思考にはやはり着いていけない事を実感した。
どうしてそうなるのかが分かりません。
ため息を吐くと幸せが逃げるというのは迷信ですし、だいたい、あなたのせいでため息を吐くのに、あなたに私を幸せにできるんですか?
いいからその口を閉じて、私の手を離して、早く離れてください。
積み重なった言いたい事が喉を塞ぐ。
自分の発言を名案だと信じ込んで、目の前でニコニコとしている音也は、その笑顔だけなら並のアイドルには負けないだろう。
キラキラとした眼差しで、トキヤをただ見つめている。
その眼差しは星のように輝いて見えた。
眩しさに目がくらみそうになる。
「……あなたが私を幸せにできるんですか?」
「うん!」
トキヤは根拠を訊いたのだが、音也は頷いて見せるだけだ。
「ねえ、トキヤ。俺の前ではいっぱいため息吐いてもいいよ。俺がトキヤをいっぱいいっぱい幸せにするからさ!」
目を細めて微笑む彼から目を離せないでいると、彼が照れたような顔で視線を逸らした。
「……なんかプロポーズみたいになっちゃったな」
『プロポーズ』という音也の言葉に心臓がドキリとした。
先ほどから続く動悸の原因を探ろうと右手を心臓に当てても理由は分からない。
「でもまあいっか。俺、トキヤが大好きだから!」
トキヤは顔が熱くなるのをはっきりと感じた。
音也の手に力が込められる。
「……トキヤ、さっきから顔赤いよ」
「そ、そんな事ありませんっ」
「もしかして照れてる?」
「照れてなどいません!」
「なら、俺の言葉が嬉しかったんだ?」
首を傾げる音也の悪戯っぽく微笑む表情の中に少年と大人を見たような気がした。
それに戸惑い、言葉を失う。
そんなトキヤをじっと見ていた音也が不意に手を離して、背を向けた。
安堵して、いつからか止めていた息を吐けば、彼が嬉しそうな笑みで振り返る。
「ため息、吐いたね」
「今のは違……」
トキヤが弁解しようとするのも聞かず、音也はまたも顔を寄せてくる。
上体を逸らして避けようとするも、後頭部を押さえられて止められた。
前髪が混じり合い、鼻先が触れ合うほどの距離に音也が見える。
「音、也……」
名前を呼ばれて目前で微笑んだ音也がトキヤの前髪を掻きあげ、露わになった額に唇を落とした。
少し湿った感触に肩を跳ねあげ、呆然とするトキヤの頬にも音也の唇が触れる。
「はい、ふたつ分の幸せ」
「お、音也!」
顔が熱くて堪らない。
その熱に浮かされたように、頭がうまく働かない。
「どう? 幸せになった?」
「そんな訳ないでしょう!」
自分勝手な言動にトキヤが怒っても、彼は納得のいかない顔をするだけだった。
「おっかしいなあ。俺は幸せになったんだけど。……もういっかい試したら分かるかな?」
「結構です!」
またも距離を縮めてくる音也に半ば怒鳴りつける。
トキヤの顔の熱は一向に引きそうにないし、もうずっと心臓が高鳴り続けている。
「そっか」
どうして彼が残念そうな顔をするのかがトキヤには分からない。
「じゃあ、これからもため息吐いてね!」
音也の心からの笑顔を見たトキヤは唇を結んだ。
ため息など二度と吐かないと強く決意したが、明日には打ち砕かれているだろう。
その時どうなるのか、今はまだ考えたくないし考えられそうにない。
トキヤは明日からの事を思い、息を漏らした。
「――トキヤ」
耳元で聞こえた音也の囁くような声に、トキヤはひどく後悔した。
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