たったひとつの冴えたやりかた


トキヤは暗闇の中に浮かぶスマートフォンの液晶画面をじっと見つめていた。
バックライトが消えて画面が暗くなる度に、ボタンを触って再度表示させる。
それを持つ右手はすっかり体温を失って冷たくなっている。
画面に表示されているのはつい先ほど受信したメールだ。
『湖で待ってろ』
差出人らしくない文章を見た瞬間にトキヤは部屋を飛び出して、学園内の湖畔にあるガゼボまでやってきた。
そのせいでまともな上着も羽織っていない。
2月の夜中の空気はあまりにも寒いし、綿雪もはらはらと舞って積もっている。
空一面は雲に覆われ、正面に見える湖を揺らす風がトキヤに吹き付ける。
それでも、腰かけているベンチから動きたくなかった。
文章をもう一度読み直せば、頬に微かに熱が集まる。
砂月。
メールを送った者の名前を心の中で呼ぶ。
差出人は那月からになっているが、こんなメールを送るのは彼しか考えられない。
どうして砂月に呼び出されたのかは分からない。
けれど、彼の行動でトキヤが理解して共感できるものは少ないからそんなのは今さらだ。
彼の歌や作る曲は本当に素晴らしい。
一度聴いた時から頭から離れなくて、何度聴いても飽きることはない。
もし、もう二度と聴く事ができなくても永遠に忘れられないだろうと思うくらいに、心を奪われている。
彼を素直に認められるのは、その部分だけだ。
それなのに、トキヤは砂月の事が大切で愛しかった。
歌に惹かれていたはずなのに、いつの間にか砂月自身に惹かれていた。

あまりの寒さに身をすくめた時、視界に何かが横切った。
驚く暇もなく、背中と胸元、後頭部にそれが当たる。
寒さが少し和らいだ気がした。
「……砂月」
ずっと手にしていたスマートフォンをポケットに仕舞いこむ。
背後から回されている両腕にそっと触れた。
砂月は何も言わない。
白い息を吐いたトキヤは、肩に置かれた彼の左手に自分の氷のような手を重ねて指を絡ませた。
すると、絡めた指先を暖めるように握り返された。
そんな些細な事がとても嬉しくて、俯いて目を細める。
「何なんだよ、その格好」
砂月が馬鹿にしたような声で言う。
上着を羽織る時間も惜しいくらい、あなたに早く会いたかったんです。
心のままを言えるはずもなくて口を閉ざす。
「そんなに俺に会いたかったのか?」
「……うるさいですよ」
しかし、心を見透かしたような事を言われて、トキヤは少し声を荒げた。
「それで、今日は何の用ですか」
用件を聞いても返事はない。
その代わりに、トキヤを抱き締める腕に力が込められた。
しかし、この体勢では砂月の顔が見られない。
それをもどかしく思ったトキヤが振り向こうとすると、砂月の右手が頭に置かれた。
その手が見かけと違って優しくトキヤの髪を撫でるので、振り向くのを止める。
時折トキヤに触れる砂月の手は、髪や皮膚を軽く飛び越えて心にまで触れる。
どれだけ優しくそっと撫でられても、その度に心はひどく波立って落ち着きを無くしてしまう。
なのに、その手がトキヤに触れる時が待ち遠しくて堪らない。
トキヤが髪を手に擦り寄せれば、砂月の動きが止まる。
「砂月?」
名前を呼べば、短い息遣いが聞こえた。
髪に彼の鼻先が押し付けるように埋められて、少しくすぐったい。
トキヤを抱く腕に、より力が入った。
「――もうお前とは会えない」
砂月の言葉が静かな空気に響いた。
トキヤは目を開いて、息を呑んだ。
砂月の左手を握りしめた。
熱くなった瞼を強く閉じて、震える唇を噛む。
ああ、ついに。
いつかはこんな日が来ると思っていた。
砂月は那月を守るために生まれた存在なのだと聞いた日から。
けれど、ずっと来てほしくなかった。
それは、遠い遠い未来の話だと信じていた。
喉が悲しみで詰まって、息もできない。
かろうじて空気を吸えば、冷たさも肺に忍び込む。
どうしようもなく寒くなる。
元々無かったものが無くなり、あるべき姿に還るだけだ。
これが不毛な想いだととっくに知っていたし、こうなる事もずっと前から分かっていた。
それなのに、辛くて苦しくて堪らない。
予想していた痛みなのに少しも軽減されないどころか、予想していたそれよりずっと酷かった。
「……そう、ですか」
ちっとも平静を装えないまま、こんなに静かな場所でも砂月にようやく聞こえるくらいの声をやっとの思いで絞り出す。
それは情けなく震えていて、感情が隠せない。
嫌です。
どうしてそんな事を言うんですか?
どこにも行かないでください。
これからも私の側にいてほしいんです。
砂月。
ずっと側にいて、私の歌を聴いて、あなたの歌を、曲を聴かせて。
お願いです。
いつまでもこうしていてください。
心の中がそんな言葉で溢れかえっている。
だけど、どれを伝えても意味はない。
砂月を側に引き留める役割は果たせない。
トキヤがどれだけ懇願しても、叫んでも、泣いて、縋ったって砂月はそれをいとも簡単に振り払って行ってしまう。
それが悲しくて悔しかった。
好きだと言ったトキヤに、不器用ながらも応えてくれた彼の気持ちはきっと本物だ。
手を握れば握り返し、髪を撫でてくれる手の優しさは本当だ。
しかし、トキヤが砂月を案じてきたように、砂月は那月を案じている。
砂月に、彼自身やトキヤ以上に大切にされている那月が羨ましかった。
那月が「行かないで」と言えば、もしかすれば砂月はそうするかもしれない。
けれど、同じ事をトキヤが言っても、彼が那月の為だと考えてする事なら、聞き入れてもらえない。
それが分かり切っているせいで、自分の今の想いを砂月に言う事ができない。
息を大きく吸い込んで、瞼を開ける。
「分かりました」
今まで向き合ってきたいくつものカメラの前以上に、演技が求められている。
なのに、聞き分けのよさを微塵も演じられないままトキヤはそう言った。
震えた声では、全く分かりたくない事が砂月に伝わっただろう。
これでは砂月が困ってしまう。
そう思ったが、きっと彼の心には何も響かない。
砂月を困らせたくても、自分だけを見てほしくても、砂月自身を大切にしてほしくても、トキヤにはどうする事もできない。
彼が自分の役目に終わりを見つけたのなら、それを受け止めるしかない。
後は、トキヤがひとりでこの想いを終わらせるだけだ。
どう終わらせればいいのか見当もつかないが砂月は手伝ってはくれない。
トキヤは途方に暮れた。
いつの間にか雪は止んでいて、雲間から白銀に輝いた満月が覗いている。
それを一度瞬きして眺め、目を伏せた。
「……今まで、ありがとうございました」
心の底からの気持ちを告げる。
その瞬間、砂月の右手が目を塞ぎ、肩を掴まれて振り向かされた。
突然の事に驚いていると、唇に何かが触れた。
それが砂月のものだと理解すると同時に、顔が熱くなる。
砂月とキスをしたのはこれが初めてだ。
彼がトキヤの髪を撫でたり抱き締めたりはしても、キスはしない理由は分かっていた。
彼の体はあくまで那月のものだ。
だから、彼はそんな事は一度もしようとしなかったし、トキヤも求めはしなかった。
それなのに、今はキスをしている。
ただ唇が触れ合っているだけなのに、とても幸せで、ひどく切ない。
今すぐ両腕を伸ばして、力いっぱいに砂月を抱き締めたい。
癖のある髪を梳いて、大きな背を撫でたい。
明るく澄んだ瞳を見つめて、「好き」も「ありがとう」も「行かないで」も、全部伝えたい。
けれど、そうすると辛くなるのはトキヤだ。
すぐに離さなければならないのに、触れてしまえば離したくなくなってしまう。
これ以上触れていると、離れた時に耐えられなくなってしまう。
心を決して、トキヤは砂月の体を押した。
しかし、離れていく砂月の唇がどうしても惜しかった。
最後だけ、一瞬だけ、そんな欲が抑えきれなかった。
トキヤが手を伸ばすと、手のひらに彼の頬が触れて、指先にも何かが触れた。
皮膚でも髪でもない感触だ。
目元を覆っていた手が離れる。
トキヤが目を開けた時には、背中を向けた彼が雪に足跡を残し、森の中へと消えていくところだった。
その姿を信じられない思いで見つめる。
指先に触れたのは、冷たい金属だった。
それは細く長い形状で、まるで、眼鏡のツルのようだった。 
彼は頑なに顔を見せようとしなかった。
今までにした事のないキスをした。
トキヤは全てを悟った。
呼び出しのメールを送ったのも、背後から抱き締めたのも、別れを告げたのも、キスをしたのも、全部砂月ではない。
砂月はもういなくなっている。
トキヤに別れの言葉を言う事もなく、還ってしまった。
ずっと堪えていた涙が溢れた。
今、トキヤが話をしていたのは、砂月の振りをしていた那月だ。
眼鏡に触れてさえいなければ、何の疑問も抱かなかった。
キスも最後だからしてくれたと理由付けて考えていただろう。
「……っ、ぅ……」
嗚咽が小さく漏れる。
これ以上はないと思っていた悲しみが、一層深くなるのを感じた。
どうして。
どうして何も言ってくれなかったんですか。
せめて別れの言葉を聞きたかったのに、言わせてほしかったのに。
名前をもう一度呼んでほしかったのに。
ほんの少しだけでも触れたかった。
たった一瞬だけでも触れてほしかった。
悲嘆が胸の奥から絶えずに沸き上がる。
「砂月……」
トキヤがどれだけ名前を呼んでも、砂月はもう答えてくれない。
それを思い知り、トキヤはさらに涙を零した。