幸せは重たくて痺れる
目の前には自分にとって大事で大切で大好きな人。
その人が隣で眠っている。
規則正しいゆっくりとした寝息と、寝返りも打たない事から、彼の睡眠が夢も見ないくらいに深い睡眠に耽っている事が分かる。
すぐ横にいる自分を警戒せず、拒みもせず無防備に熟睡している。
しかし、彼の安眠は自分の腕の感覚と引き換えだった。
腕枕をしよう。
まだ眠ってしまう前のトキヤに、そう提案したのは音也自身だった。
今までに何度か同じベッドで彼と眠ったけれど、いつもそれぞれの枕を持ち寄っていた。
誘う機会が無くてそうしていたが、本当はずっと腕枕に憧れていた。
ドラマや映画、漫画などで見かける、ひとつのベッドに眠る恋人たちの腕枕をしながら顔を寄せている姿が羨ましかったのだ。
もちろん、それは男女のカップルの姿ばかりだったが、その姿は全て自分がトキヤに腕枕をしている姿に変換された。
ねえ、トキヤ。俺が腕枕してあげるよ。
音也がもうベッドの中に潜り込んでいるトキヤを見下ろして言うと、彼は眉根を寄せて難色を示した。
その下の白いはずの頬が薄く赤くなっている事には口出ししなかった。
指摘したところで、あっさり認められる事もなく、いつもの焦った早口で否定されるだけだ。
代わりにトキヤを説得に掛かる。
ほら、俺の枕……えっと、汚れちゃったし。
ここで、音也の枕を汚した張本人であるトキヤの頬は更に赤みを増して、少し目を逸らした。
枕、ひとつしかないじゃん。だからさあ、トキヤに腕枕してあげる!
彼は視線をソファーの方へと向けた。
二度瞬きをしながらそこを見つめる彼の意図が音也にも分かった。
クッションを使えばいいじゃないですか。
トキヤがそう言う前に、音也はトキヤの上に寝そべった。
彼は腹部までしか毛布を掛けていなかったから、寝間着越しに重なる上体の体温が混じり合った。
右胸にトキヤの少しリズムの早い心音を感じる。
彼もきっと同じだろう。
重たいと訴える視線に負けて、横のスペースに転がり落ちる。
スプリングが軋んだ。
そして、毛布をふたりの肩まで掛けてから唯一無事な枕をトキヤの頭の下から引き抜いた。
ふかふかの羽毛が詰め込まれたそれに頭を預けると、トキヤの髪の匂いがして気持ちが暖かくなる。
左腕を彼に向かって投げ出して、
誘うように指先をちょいちょいと動かした。
けれど、まだ彼は躊躇していた。
表情には照れや呆れは無くて、遠慮や申し訳なさ、困惑が浮かんでいる。
大丈夫だって。ていうか、俺がやりたいだけだから!
トキヤの抱く必要のない感情を振り払うために音也は必死で言葉を熱くした。
ねっ、お願い!
引き寄せた左手を顔の前で合わせて懇願すると、彼はようやく陥落した。
はあ、と僅かに色気を伴った吐息が漏れる。
後で文句は言わないでくださいよ。
うん、分かってるって!
音也は元気よく答えながらも、実のところ分かっていなかった。
何に文句を言うんだろう?
そして、音也の二の腕にトキヤがそろそろと頭を乗せた。
長袖のシャツを着ている為に、柔らかな髪が地肌に触れることはない。
どう? どう? どんな感じ?
初めての腕枕に興奮しながらもトキヤに感想を求めると、彼は神妙な面持ちでこちらを見て、苦々しく答えた。
堅いです。
考えてみれば確かに、いつもこの羽根枕を使っているトキヤからしてみれば、音也のそこそこ筋肉が付いた腕はさぞ堅くて眠り辛い事だろう。
しかし、何か別の甘い感想を期待していた音也は言葉に詰まった。
トキヤが横向けになり、唇を結ぶ音也と向き合う。
そして、目を伏せて、ふっと表情を彼の枕のように柔らかいものにした。
音也の音がします。
俺の音?
トキヤの指が繊細なものに触れるように、音也の腕に重なる。
そんな風にしなくたって俺は壊れないよ。
心の中で語りかけても、トキヤは気づかずに腕を一撫でした。
長い睫毛の下から、早朝に白み始めた空のような色が音也を見上げる。
脈の音ですよ。
息を含んだ声が静かに囁いた。
人差し指が服の上から血管をなぞってくすぐったい。
音也が密かに鼓動を速めるとトキヤが目を細めて微笑む。
ドキッとしたんですか? 丸聞こえですよ。
もう! いいからおやすみっ!
ええ、おやすみなさい。
音也の心の底まで見抜くような眼差しが丁寧に二重のラインが引かれた瞼に覆われて見えなくなる。
彼は少し頭の位置を変えて、息を吐き、体の力を抜いた。
この様子では、すぐに寝落ちそうだ。
音也も瞼を閉じて、右手をトキヤの腰に添えて、眠りに就いた。
そして、目が覚めた。
トキヤは隣でまだ眠っている。
時間は未明前。
カーテンの隙間からは眠る前と変わらない暗闇が見えている。
いつもなら朝まで爆睡している筈だ。
トイレに行きたい訳でもないのに、何故起きてしまったのか少しの間分からなかった。
トキヤの寝顔をぼんやりと眺めながら、髪を撫でようと左手を動かそうとした。
しかし、まともに言うことを聞かない。
そこで腕が痺れている事に気づいた。
トキヤの頭の向こうで指先を擦り合わせても、あまり感触がない。
音也はとうとう理解した。
トキヤはこうなることが分かっていたから、後で文句を言うなと釘を指したのだ。
そっとため息を吐いた。
眠る前には重たくなかったトキヤの頭が今ではとても重たく感じられる。
テレビの中のラブストーリーの中のカップルたちもこんな苦悩を抱えたのかと思いを馳せる。
しかし、撮影が終わればすぐに腕枕を止めるだろうから、そんな事はないだろう。
なら、世の中のカップルたちはどうしているのだろう。
寝ている相手の下で腕が痺れた場合、どうするのが一番なのか。
考えてみてもいい案は浮かばない。
レンはこういう時どうしてるのと本人に尋ねたいけれど、それは叶わない。
感覚を取り戻すために、腕を揺らさないように手を開いては握る。
トキヤはきっと、音也が痺れたよーと腕を抜いて、そこに枕を入れ替えても、文句も、音也の腕枕の方がよかったです、なんて可愛い愚痴も言わない。
だから言ったでしょうと呆れて終わりだ。
しかし、それではせっかく腕枕の誘いに乗ってくれた彼に対して不誠実なようで躊躇われる。
もしトキヤの寝相が悪ければ、寝返りを打った時に頭が腕から落ちるかもしれないが、いつも彼はほとんど寝相を変えずに眠っている。
さらに、トキヤが起きるはずの時間まで後2時間はあった。
戻ることのない手の感覚に、音也は途方に暮れた。
現実はドラマのように甘いだけではないことを身を持って痛感する。
冷静に振り返ってみれば、自分で自分に腕枕をした時にも腕は同じように痺れていた。
恋人に腕枕をするという状況に舞い上がって、そんな事は頭からすっかり抜け落ちていた。
音也はまた嘆息した。
音也の二の腕部分に頭を預けているため、10センチもない距離にトキヤの寝顔がある。
薄く開いた唇からはほんの微かな寝息が一定のテンポで聞こえる。
数時間前の彼の荒い息遣いとは大違いだ。
いつもなら、目を閉じてトキヤの寝息を聞いていると、音也はそれだけで心地の良い眠りに就くことができる。
トキヤのそれはまるで遠い昔に聴いた子守歌のようだった。
それに耳を傾けていると、いつも忙しそうな彼がきちんと休息している事に安心できて、音也も眠たくなるのだ。
けれど、今はその歌ですらも音也を眠りに誘ってくれない。
トキヤぁー。
痺れに耐えかねて、しかし起こすのも可哀想で、妥協策として唇だけで名前を呼ぶと、トキヤの瞼が痙攣したように見えた。
起きるかな、そんな期待を込めて彼の顔を注視する。
指先がひくついて、また瞼が震えたが、起きる気配はない。
眠りが浅くなっただけのようだ。
音也との体に合間に無造作に置かれた左手が大きく動いたかと思えば、音也の二の腕に触れた。
それに加えて、顔を少し動かして音也に擦り寄る。
顎を藍色の髪の毛が掠めると枕と同じ匂いがした。
トキヤの甘えたような仕草に音也は思わず微笑んだ。
音、也。
不意に寝ぼけた声で音也の名を口にしたトキヤが、唇に弧を描く。
その瞬間、音也は自由な右手でトキヤを抱き寄せた。
彼が更に頭を音也の腕に擦りつける。
好き。
好き、好き。
トキヤ大好き!
幸せ。
すっごく幸せ、ほんとに幸せっ。
夢のような幸福とそんな言葉が心の中に満ち溢れる。
この感情を歌詞にすれば、きっと満点以上の点数が貰える。
それで、ギターを弾きながらトキヤに歌って聴かせて、俺の気持ちを伝えるんだ。
タイトルはどうしよう。
何て付けようかな。
音也は心から笑いながら、トキヤの寝顔を見つめる。
そうだ、タイトルは――。
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