テレビの向こう
テレビの前に置いていた赤色の二人掛けのソファー。
よくそのソファーに音也と並んで座り、テレビを見ていた。
最初の頃は、トキヤのベッドの横に設置したテレビばかりを見ていたけれど、時間が経ち、音也に心を許せるようになった頃にはそのテレビはあまり使わなくなった。
時々音也と見たい番組が食い違った時にだけそのテレビを使う程度だった。
ふたりで音楽番組はもちろん、ニュース、バラエティー、クイズ、ドラマ、映画、ライブやコンサート、演劇のDVDを見た。
中でも、音也はHAYATOが出演する番組が好きだった。
トキヤも、出会った頃に「HAYATOの番組はすべて見ている」と言ってしまった為、音也に並んで見ざるを得なかった。
彼がHAYATOの言動に笑うたびにひどく恥かしい思いをした。
テレビを消してしまいたかったし、音也の目を塞いでしまいたかった。
けれど、映画やドラマでのHAYATOの演技を熱心に誉めてくれた時は、本当は心から嬉しくて堪らなかった。
それでも"一ノ瀬トキヤ"として認められたかったトキヤがどれだけ"HAYATO"の演技を否定しても、音也はいつになく真面目な顔で「そんな事ないよ」と言ってくれた。
あの言葉があったおかげで、トキヤは"HAYATO"を演じることを嫌になって終えずに済んだのだ。
いろんな番組を見ている時、感想を述べ合ったり、音也が言葉の意味や話の展開への疑問を尋ねてきたり、彼が画面に合わせて歌ったりしていて、静かに見ている事は少なかった。
クイズ番組を見る時にはいつも彼と競い合い、そして必ずトキヤが圧勝していた。
今日こそは集中して見ようと思っていても、頻繁に話しかけてくる音也に釣られてトキヤも喋る事になった。
音也の質問に渋々答えていたはずなのに、いつの間にか自ら「今の言葉の意味は――」などと教えていた。
「今の演技どう思いますか」とも聞いたし、「明日の夜、バラエティにHAYATOが出るんです」と伝えていた。
その度に音也が笑顔で「さっすがトキヤ!」と誉めてくれたり、「じゃあ、一緒に見ようよ」と誘ってくれるのが、トキヤにとっては幸せだった。
いつだったか音也がグレープジュースをこぼして付けてしまったシミはどうやっても取れず、今もくっきりと痣のように残っている。
音也によって育てられた音也への想いも、トキヤの心の中でまだ枯れぬままだ。
音也と同じ部屋で過ごした1年はあっという間に過ぎ去ったけれど、トキヤにとっては忘れられぬ1年になった。
音也と出会った初めは、自分の中にいたHAYATOが飛び出して目の前に現れたような錯覚を感じていた。
人懐っこく、物怖じせず、明朗活発、ころころと変える表情で人を惹きつける。
そんな音也が眩しくて輝いて見えて、だからこそ見ていたくなかった。
正に太陽のようで直視できなかった。
トキヤが必死に演じているもの全てを
音也は最初から全部手の中に持っていた。
トキヤは一から全てを造り上げているのに、音也は手を開くだけで済む。
羨ましくて、妬ましかった。
確かにそう思っていたのに、音也の熱はトキヤの嫉妬を溶かして、羨望を好意へと変えていった。
そうして最後には、生き物にとっての太陽のように、酸素のように、食事や睡眠のように、トキヤにとって欠かすことのできない存在となった。
好きでたまらない、愛してやまない存在になった。
早乙女学園を卒業してから3年が経った。
事務所の寮に住むトキヤの部屋には、赤色の二人掛けのソファーが置かれていた。
元は学園の物だったけれど、それを失えば思い出も消えるようで手放したくなかったトキヤが買い取った。
それを聞いた音也は「なら、トキヤの部屋に行けばまたふたりでテレビが見られるね」と笑った。
「たまになら、来てもいいですよ」と、本当はいつでも音也に来てほしかったけれど、トキヤがそう答えれば、卒業して間もない頃には時々音也がやってきた。
彼は自分が愛用していたクッションを「俺の為に置いといて」とトキヤに譲ってくれた。
そして、同室だった頃のようにふたりで並んでテレビを見たり、音也がギターを弾くのを聞いていた。
しかし、アイドルとして成功していくほどに、彼の来訪ペースはどんどん減っていた。
今ではこの4カ月間まともに顔を合わせていない。
けれど、トキヤは今、音也の顔を見ていた。
笑っている音也を見つめて、トキヤは赤いソファーに独りで座っていた。
3年前から変わらぬような、それでも少し成長したような面差しの音也は赤い髪をあの頃から少し切っていた。
『えーっと、オリオン座!』
音也が叫ぶように答えて、祈るように手を組んだ。
トキヤに何かを頼む時にも、彼は同じポーズをしていた。
懐かしさに目を細める。
少し焦らす様に時間を置いた後、正解を告げる音が鳴った。
音也は両手を挙げてまた笑う。
トキヤがその頼みを了承した時と同じだ。
「……音也」
掠れるような声で、トキヤはテレビの向こうの音也を呼んだ。
音也はそれに応えるように、カメラに向かって得意気にピースをした。
トキヤは腕に抱えていた音也の愛用していたクッションを抱きしめる。
もう音也の匂いはしない。
卒業してから、音也の出演する番組はほぼ全てチェックしていた。
ひとりでそれを見るたびに、トキヤは愛しさと懐かしさと切なさで胸を満たした。
学生の頃から、誰にも、音也自身にさえも告げたことのない想いがさざめき揺れて、また大きくなっていった。
もう3年も想いを引きずっている自分は馬鹿だ。
音也が言うほんの一言にさえ胸を躍らせて、メールが来る度に心が舞い上がって、どこかに出かける都度に音也に会えないかと期待して。
「仲のいい芸能人は?」という質問に「トキヤだよ!」と迷いも躊躇いもなく音也が答えるのを聞いて、まだ自分は音也にとって「一番の友達」であると安心した。
時々会う音也がトキヤに笑いかけて、「トキヤ」と名前を呼んでくれるだけで、泣きたくなるくらいの喜びが溢れた。
それでも、音也への愛が大きくなっても、彼に気持ちを告白しないのは聡いと自分では思っている。
音也がどれだけトキヤに「好き」と言っても、甘えてきても、触れてきても、抱きついてきても、そのどれもがトキヤが音也にそうしたいと思うものとは違う種類のものだとよく知っている。
トキヤが音也に「好きです」と伝えれば、音也はきっと彼らしくないほどに悩むだろう。
どうすればトキヤを傷つけずに済むかを一日中考えてくれる。
そして最後には、心から申し訳なさそうな、泣きそうな顔で「本当にごめん」とトキヤに頭を深く下げて謝るのだ。
そうして音也との今までの距離や絆が壊れるのなら、自分が死ぬまでこの気持ちを閉じ込めていた方がずっといい。
報われなくたっていい。
――本当は嘘だ。
笑ってくれるだけでいい。
――自分だけに笑ってくれるのではないなら意味がない。
音也と自分はライバルでいて友達だ。
――ライバルであり、恋人になれたらと何度願った事か。
そんな風に葛藤して悩み苦しみ続ける方がよっぽどいい。
『では、次で最終問題です。これに正解すれば見事に賞金ゲット! 一十木君頑張ってくださいね!』
『はーい、頑張りまーす』
次のクイズが音也が正解できるものであればいいとトキヤは祈った。
『日本で一番長い駅名は?』
南阿蘇水の生まれる里白水高原駅。
出題されたクイズにトキヤはすぐさま心の中で答えた。
それに対して、音也は深く考えこんでいる。
音也。
一緒にクイズ番組を見ていた時、同じ問題が出たでしょう?
その時、私が答えるとあなたは「何でそんなの知ってるんだよ」と笑いました。
「でも、やっぱりトキヤってすごいなあ」とも。
けれど、同じようなやりとりは何度も何度も繰り返しました。
あなたはきっと覚えていないでしょうね。
心の中で音也にそう話し掛けたトキヤは息を吐いて、ソファーの背もたれに体を預けた。
この番組ももうじき終わる。
そうしたら、明日収録するドラマの台本の最終チェックを行おう。
『えーっとねえ……うーん……』
解答の制限時間が迫る中、音也は唸って考え続けていた。
『一十木君、どうですかー?』
『えーっ、分かんないよー!』
困り果てた顔の音也が首を振った。
『うう……トキヤ……』
その瞬間、トキヤは目を見開いてテレビを見つめた。
聞き間違いなのか、そうでないのか。
左胸が普段より忙しなく動いている。
『前、トキヤがこれに答えてた……』
音也ははっきりと「トキヤ」と名前を口にした。
トキヤはリモコンを勢いよく掴み、音量を上げる。
『本当に一ノ瀬君と仲良しなんですねえ』
段々と上がる音量の中で司会者が笑う。
すると音也もにっこりと笑った。
『そう! 俺とトキヤってすっごく仲良しなんだ!』
3年前から変わらぬ無邪気さで音也は言った。
トキヤの視界が滲んで揺れ始める。
『で、なんだっけ……。……うーん、分かんないから助けてよトキヤーっ』
部屋中にトキヤに助けを求める音也の声が響く。
困り切って哀願するような音也の声をトキヤは何度も聞いた事がある。
最初にどれだけ突き放しても、結局はその願いを受け入れることはよくあった。
甘やかしては身にならないと何度も思いながら、どうして大切な人の願いを無下に断ることができただろうとも思っていた。
できることなら、今すぐに音也に答えを教えたい。
けれどこれはもう何日も前に収録されたものだ。
今更手遅れだ。
トキヤにはどうすることもできない。
『そんな制度はありませんよ!』
司会者がトキヤを肯定するように言った。
『だよねえ……。何て言ってたかなぁ……、何だっけ……。あっ! 南……南……、何だったかなあ……』
音也が思い出を振り返っているのを見て、トキヤの目の奥に同室だったあの頃が鮮やかに蘇る。
3年経った今でも、トキヤはあの場所に音也と共に帰りたいと何度も思った。
音也がすぐそこで笑っていてくれるだけで、トキヤにとってあの部屋は天国のような……楽園のような……、暖かくて穏やかな幸福を手に入れられる場所だった。
けれど、今あの部屋に行っても、がらりと変わった内装の中で知らない後輩ふたりがトキヤ達と同じように同室生活を送っているだけだ。
もうあの幸福に身を浸すことはできない。
頬が濡れた。
抱いていたクッションに小さなシミがいくつもできていく。
喉の奥が詰まり、唇が震えた。
鼻の奥がつんとする。
音也がひどくぼやけて見える。
縋るように、音也の代わりのように、トキヤはクッションを強く抱きしめた。
『残り10秒です!』
『南……南あ、なんとか……何だっけ……あ、アイス……?』
『5……、4……、3……』
『……み、南アイスができる国駅!』
音也の出した答えに、トキヤは泣きながら小さく笑った。
少しはトキヤの言葉を覚えていてくれている。
それだけの事でも、とても嬉しかった。
音也がトキヤにしてくれたように、トキヤも彼に何かを残したかった。
『南アイスができる国駅、でいいですか?』
『はいっ』
『では、答えは………………残念! 南阿蘇水の生まれる里白水高原駅、でしたーっ! ニュアンスはほんのちょっとだけ合ってましたねー。一ノ瀬君のおかげですね』
『うーん、残念……。トキヤ、ごめんなぁ』
音也がすまなさそうにカメラに向かって両手を合わせた。
それを見て、彼がトキヤに謝る声を聞いて、トキヤの目からさらに涙が零れる。
今目を閉じて、再び開けた時に、あの幸せの部屋に戻っていて、そして隣に音也が座っていてくれたらどれだけいいだろう。
今のように、「ごめんなぁ」と言いながら、すまなさそうな顔をしながらも目はトキヤの様子を伺っていてくれたら。
そうしたら、トキヤはしばらく小言を言ってから「仕方ないですね」と許すのだ。
音也はきっと「ありがと、トキヤ」とほっとして笑う。
もしかしたら、勢いよく抱きついてくるかもしれない。
少しの間だけ全身で音也の温もりを感じたら、「鬱陶しいです」と彼を振り払おう。
しかし、目を開けてもトキヤがひとりで泣いているだけだった。
クッションは涙で色を濃くしている。
喉から引きつった呼吸音が出る。
テレビからは司会者が音也が賞金獲得に失敗したことを告げて、視聴者が抽選でその賞金を得られると話している。
『なんと、一十木君のサイン色紙も付いております! では、一十木君、サインをお願いしますね』
『はーい。…………こんなサインでーす! 皆さん、応募よろしくお願いします!』
音也はさらさらと色紙にサインをして、カメラに見せる。
そのサインは学園にいた頃に音也がよく練習していたものと同じだった。
顔が書かれた音符ももちろん書かれている。
『応募先はこちらですっ。お間違えの無いようご注意くださいね』
画面に現れた住所が書かれたテロップを指して音也が笑う。
次に音也に会えるのはいつだろう。
いつになれば、音也のあの笑顔を間近に見られるだろう。
やはり、あの寮での生活は幸せそのものだった。
テレビの向こうに音也はいなかった。
テレビの向こうにいた造り上げた自分を見て、赤いソファーの隣に座った音也が笑っていた。
今は、二人掛けのソファーを独りで広く使ってばかりだ。
仕事はやりがいもあるし充実していて辞めることはできないししたくもない。
それでも、あの日々は愛おしくて堪らない。
帰りたくて仕方がない。
毎日のようにこのソファーに音也と座りたい。
音也が手を振るその下にはエンドクレジットが流れている。
『ばいばーい』
『来週も見てくださいね』
音也と司会者が言うと、すぐにCMへと切り替わった。
トキヤはテレビを消して、ソファーに横たわった。
収まり切らない足を肘掛けの外に放り出す。
音也の物だったクッションを枕にした。
涙はまだ止まらない。
台本のチェックをする気などもう起きなかった。
いつか音也に会えたら、ゆっくりと話が出来たなら、「内輪ネタは感心しませんね。もっと視聴者の事を考えて、視聴者と共有できるような話題を話すべきです。そもそも、あなたと仲がよいと思われるのは心外です。おかげで私にも『一十木君と仲良しだそうですが』という話を振られるんです」と、トキヤが懐かしさと切なさ愛しさに涙を流したことも、名前を呼んでくれて、あの頃を振り返ってくれてすごく幸せだったことをおくびにも出さずに叱らなければ。
その時、音也はまた「ごめんなぁ」と謝るんでしょうね。
トキヤは小さく微笑み、涙に濡れたまま眠りに落ちた。
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