カメラの裏側


トキヤはスケジュール帳の今日の日付を見ては、何度もため息を吐いた。
いくら見ても、今日の予定は変わらない。
ゲストとして呼ばれたトーク番組の収録。
ゲストはトキヤだけではなく、音也も呼ばれていた。
親交のある芸能人ふたりをゲストとして招き、ふたりの間柄やプライベートでの様子を知ろうという主旨のトーク番組だ。
少しの打ち合わせはあるが、ゲストの素の反応を見る為にリハーサル無しで収録される。
デビューして間もない頃には音也と歌番組やバラエティで何度か共演したが、このような形は初めてだ。
ほぼ5カ月の間音也とは顔を合わせていない。
彼が出演していたクイズ番組を見て、泣きながら眠ったのはこの前の事だ。
トキヤがもう一度ため息を吐く。
3年も引きずってきた恋はたった1カ月だけでは忘れられず、今でもトキヤは変わらずに音也を好きで堪らなかった。
ようやく音也に会える、それだけでなく彼と共演できるというのに、気は重たい。
トーク中、彼がどんな事を喋るかは分からない。
もし彼がトキヤにとっては甘く暖かな言葉を口にしても、トキヤは決してそれに反応してはならない。
音也の前だけでなら、少し反応した所で彼は気付かない。
けれど、その様子をカメラが収めて全国へと流すのだ。
鈍い音也は気付かなくても、関係者や視聴者の中に気づく者が何人もいるだろう。
それだけはあってはならない。
大きく息を吸い込んで、それを吐き出してから、トキヤは赤いソファーから立ちあがった。
HAYATOを演じていた私なら隠し通せると自分に言い聞かせて、家を出た。


テレビ局に着き、楽屋の前へとたどり着く。
ドアには「一ノ瀬トキヤ様 一十木音也様」と書かれた紙が貼られている。
音也はもう来ているだろうか。
トキヤはドアの前で腕時計を確かめた。
予定時間にはだいぶ早い時間だ。
きっと音也はまだ来ていない。
彼が来るまでに司会者に挨拶を済ませて、その後は心を落ち着かせていよう。
あんなに気が重たかったのに、音也にもうすぐ会えると考えただけで、トキヤの心は落ち着きを無くしていた。
髪を手櫛で整えてから、ドアを開ける。
「トキヤ!」
それと同時に大声で名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
楽屋の中を見れば、音也がドアのすぐ横に置いた椅子に座っていた。
勢いよく立ちあがった彼は文字通り飛びついてきて、トキヤはたたらを踏む。
よろけながらも音也を受け止めたが、思考は止まっている。
分かるのは音也に抱きつかれている事だけだ。
「久しぶりぃ! 元気だったー? 俺は元気だよっ! あ、そういえばこの前さあ!」
耳元にはCDやテレビのスピーカーを通していない音也の声。
鼻孔には久しぶりの音也の匂い。
体には音也の体温。
それら全部を感じて、本当に音也が今目の前にいるのだと思った。
「っ、音也っ」
名前を呼ぶ声が掠れる。
今もすぐ背後を人が通っている。
このままの状態では誰に何を言われるか分からない。
トキヤに抱きついている音也を引き剥がさなければならない。
「マサに会ったんだけど元気そうだったよー! 今度ドラマの主演やるんだって!」
「音也!」
「え、何?」
肩に埋めるようにしていた顔を少し離して、音也がトキヤを見つめる。
不思議そうな眼差しはすぐそこから向けられていた。
あの頃から3つも年を重ねたのが信じられないほどにあどけないままだ。
「…………いいから、離れなさい」
「ちぇっ、久しぶりなのにさあ。あ、おはよーございまーす」
「おはようございます、本当に仲良しなんですねえ」
背後を通り過ぎていく女性スタッフが笑う。
トキヤは彼女に会釈をしてから音也を楽屋へと押し込んだ。
ドアを閉めて、トキヤが椅子に座ると音也が隣に座った。
彼はアイドルのお手本のような満面の笑顔でトキヤだけを見つめている。
視聴者の為でも、ファンの為でもない笑顔だ。
「……おはようございます、久しぶりですね」
その事を堪らなく嬉しく思いながらも、トキヤは落ち着いた態度を装った。
「本当だよ! 何か月ぶりだっけ? 最近まともに喋ってなかったもんなあ」
「さあ……、……確か5ヶ月くらいでしょうか」
即答できる答えを、少し考えて見せてから答えると、音也は目を丸くしてトキヤに顔を寄せる。
「5か月!? そんなに会ってなかったっ? えーっ、昔じゃ考えられないよっ」
「そうですね。あの頃は毎日顔を合わせていました」
「そっかあ、5ヶ月かあ。どうりでトキヤに一度も会わずに、トキヤの主演のドラマが始まって終わっちゃったと思ったよ」
トキヤは小さく頷いてから、音也をじとりと睨む。
その目を見た音也はさっと表情を変えて「俺、何かしたかな?」という顔をした。
「音也。この前のクイズ番組は一体何ですか」
「クイズ? あっ、あれ? 見てくれたんだ!」
「あんなに私の名前を出して……、一体何なんですか? あの場に私がいるならまだしも、出演していない者の名前を連呼したって仕方がないでしょう。
視聴者の事をもっと考えて発言なさい。内輪ネタはどうかと思いますよ」
「はーい」
音也が軽い調子で返事をする。
トキヤは一度視線を外し、息を呑んでから話を続けた。
「それと、メディアで『私と仲が良い』などと嘯くのは慎んでください。私にとっては心外です。
お陰で私にまで『一十木君と仲が良いそうですね』などと言われますし、この番組にもあなたと共演する羽目になっているんです」
全く心にもない、心と正反対の言葉をスラスラと述べて叱りつける。
本当は、『一十木君と親しかったんですか?』と聞かれるたびに『私にとって一番の友人です』と答えたくてたまらないのに。
「へへ……」
トキヤに叱られているというのに、音也は嬉しそうに笑っていた。
目を細めて、反省の色が皆無な様子でうんうんと頷いている。
「……何を笑っているんですか」
『ごめんなあ』と謝る姿を想像していたので拍子抜けしながらもトキヤは顔をしかめた。
釣られて微笑んでしまいそうになるのを堪える。
「んー? 学生の時みたいだなあって思ってさ」
音也は懐かしげに言った。
「ほんと、トキヤにはよく叱られたなあ……懐かしいや」
「あなたがしっかりしていなかったからですよ」
一緒にあの頃へ帰りましょう、音也。
気を抜けば口を突いて出そうな言葉を心の奥底へ閉じ込める。
「もう大丈夫だって。あ、挨拶行かなきゃ。行こっ、トキヤ」
「……そうですね」
トキヤは微かに息を漏らしてから頷いた。



「本日のゲストはこのふたり!」
「一ノ瀬トキヤと」
「一十木音也でーす!」
挨拶を済ませ、家のリビングのようなセットへと入り収録が始まった。
芸歴の長い男性芸能人と若い女子アナの司会者の間に挟まるようにトキヤと音也は座っている。
音也がどのような事を言っても、心を殺さなければならない。
トキヤはそれだけを考えながら微笑んでいた。
「はい、もうテレビの前の皆さんもご存じだと思うんですけども、一ノ瀬さんと一十木さんはとっても仲が良いそうですね」
「そーなんですよ、もうすっげー仲いいんですよ!」
音也の隣に座っている女性司会者が言うと、音也が答えた。
「なんでそんなに仲良いの? ふたりとも反対の性格だと思うんだけど」
「私たちは早乙女学園の同期の生徒だったんですが、寮が彼と同室だったのが切っ掛けですね」
男性司会者の問いかけにはトキヤが答える。
トキヤの脳裏に浮かんだあの部屋の様子はすぐさまに振り払った。
「1年間同じ部屋だったそうですね。寮生活は今振り返ってみるとどうでしたか?」
「本当に楽しかったですっ。課題とかがいっぱいあって大変だったんですけど、トキヤがいつも手伝ってくれて」
「手伝わされたと言うのが正しいんですが」
「分かんないとことか教えてくれたんですけど、時々言ってる事がよく分かんなかったなあ」
「音也の理解力が低いだけですよ」
勝手な事を言う音也にトキヤが呆れた様子をしてみせる。
音也は「そうかなあ」と苦笑いした。
「はは、一ノ瀬君はどうなの?」
「音也はこの通り、いつでも喋っていて騒がしかったですよ」
「騒がしいって……、『元気』って言ってよお」
音也が笑ってトキヤに肩をぶつけてくる。
笑った音也がそこにいるだけで、私は幸せになれたんです。
寮生活は本当に幸せでした。
もちろんそんな事は口が裂けても言えない。
こんな事を考えていては、どこかでぼろを出す。
トキヤは静かに息を吸い込んだ。
「学生時代のおふたりの写真が用意してあります! 今から3年前の物でーす」
女性司会者がテーブルに伏せて置いていたパネルを1枚裏返した。
「どの写真〜? あ、俺が提供した奴だっ」
パネルを覗きこんだ音也が吹き出して、トキヤの様子を窺う視線を向けてきた。
「何の写真を……っ!?」
パネルがトキヤの方に向けられた瞬間に言葉を失った。
そこに写っていたのは、ベッドで眠っているトキヤとその横でピースをしながら笑っている音也だった。
音也が写真を撮り、それを番組に提供したらしい。
トキヤは隣で爆笑している音也を睨みつけるが、何の効力もない。
「一ノ瀬さんの貴重な寝顔ですねー。普段はすごく格好いいイメージがあるんですけど、寝顔は可愛いんですね」
「もういいですからっ。次の写真に行ってください!」
「おー、必死だなあ」
トキヤがパネルを伏せると、男性司会者も笑う。
恥ずかしさを紛らわすために、音也に食ってかかる。
「だいたい、あなたもどうしてこんな写真を撮っているんですか! 人の寝顔を撮るなんてっ」
「朝起きたら、珍しくトキヤが寝てたからー。スタッフの人に、寮でのトキヤとの写真くださいって言われたからこれにしたんだっ」
音也は屈託がない。
トキヤは額に手を当てて頭を振る。
「では、次の写真に行きましょう。こちらです」
「あ、みんなで撮った写真だ!」
パネルを覗きこんだ音也は嬉しそうに声を上げた。
トキヤも見てみれば、寮の前でトキヤと音也だけでなく、翔やレン、那月、真斗達と撮った写真だった。
卒業間近の頃に記念として写したものだ。
音也とだけでなく他の友人とも写った写真をほしいと要求されたトキヤが番組に提供したものだ。
「この写真、イケメンしか写ってないよ。さっすが早乙女学園」
「本当にみなさん格好いいですよね! おふたりはこの写真に写る四ノ宮さんや神宮寺さん達とも親しいそうですね」
「うんっ、よくこの6人で遊んでたなあ」
「なんと、四ノ宮さんと神宮寺さんからおふたりの仲へのコメントを頂いてます!」
「おーっ! 那月、レン、ありがとー! 今度、皆でご飯行こっ!」
「一体何を言われるんでしょうね」
音也がカメラに向かって手を振る横で、トキヤは女性司会者の手元のカンペを見やる。
「トキヤはどこでご飯食べたい?」
「どこででもいいので黙っていてください」
「ちぇっ」
音也に目もくれずに答えれば、彼が微かに拗ねて見せた。
「まずは四ノ宮さんからのコメントです。『音也くんとトキヤくんはほんとーに仲良しさんでした! 音也くんたちの部屋に遊びに行くと、よくおふたりは並んでテレビを見て楽しそうにしてました。クイズ番組を見て、競い合うのが好きだったみたいです』……だそうです」
「この番組は見てなかったの?」
「いえ、ふたりでよく拝見していました。けれど、このふたりで出演するとは考えもしなかったですね」
「えーっ、俺がよく『これに一緒に出たいなあ』って言ってたじゃん!」
「あなたはどの番組を見てもそう言っていましたよ」
ドラマを見ては『共演したい』と言い、クイズ番組を見ては『勝負の決着をつけたい』と音也は言っていた。
「次は神宮寺さんからです。『イッチーとイッキは、仲良しというよりは"飼い主と犬"って気がするね。従順な犬じゃなくて、飼い主を振り回す犬って意味で。イッチーがどんなにイッキを躾しようとしても躾きれないで、結局振り回されてばっかだったよ。今もそうみたいだけど』との事です」
「……俺、いつトキヤを振り回したっけな」
「私は今この瞬間も振り回されていますが」
首を傾げて真面目に呟く音也にトキヤが訴えても、音也は「んー?」と納得していない。
「確かに一十木さんはわんちゃんみたいですよねえ」
「よく言われますっ。自分じゃどこがそうなのか分かんないんですけど」
「懐っこくて元気なとこがでしょ」
「そこが一十木さんの魅力ですからね!」
「私は音也より犬の方が可愛いと思います」
「えー、俺は犬よりトキヤの方が好きだけど」
「……そうですか、よかったですね」
トキヤは音也から視線を逸らした。
「さて、突然ですが……ここにおふたりの携帯がありまーす」
「毎日電話とかすんの?」
「前まではよくしてたんですけど、最近はたまにしかしてないですねえ」
当然だ、ふたりとも多忙でゆっくり電話などしていられない。
「こちらが一ノ瀬さん、こちらは一十木さんのものなんですが……なんと、お揃いのストラップがついてます!」
確かに、トキヤと音也の携帯には同じストラップがついている。
王冠をモチーフとしたストラップで、トキヤは紫、音也は赤色のものをつけていた。
「卒業する時に買ったんですっ。トキヤ、まだ付けてくれてるんだねー」
「外すとあなたがうるさかったからですよ……」
「男同士でお揃いのストラップなんてなかなか付けないよ! なに、もしかして付き合ってんの?」
男性司会者の問い掛けにトキヤは目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「いえ、まさか」
「あははっ。トキヤの事は好きだけど、付き合ってないですよー!」
音也がそう答えるのを聞きながら、もう一度息を吸い込む。
「でも、もしトキヤが女の子だったら、俺、きっと猛アタックしてでも付き合ってたと思いまーす」
音也がトキヤに笑いかけた。
その言葉と笑顔はトキヤを狼狽えさせるには十分すぎたが、カメラや司会者たちを見て抑え込む。
何も考えてはいけない。
心を殺さなければ。
「勝手な事を言うの止めてください、本当に」
「学園にいた頃、トキヤたちが女装したんですけど、ちょっと可愛かったなあ」
「へー、一ノ瀬君の女装かあ……。写真無いの?」
「あ! 携帯にデータが残ってたはず!」
「おお、見せてよ」
「私も見たいですー!」
「ちょっと待ってくださいねえ」
「……音也」
携帯を触り始めた音也の名前を呼ぶが、制止にはならない。
「大丈夫大丈夫。トキヤって肌綺麗で白いし、細いからいけるいける」
「何がどう大丈夫なんですか」
「だから、トキヤが女の子だったらーって話。あっ、イチコちゃんの写メあった!」
「イチゴ?」
「イチ、コ! レンが女装したトキヤにつけた名前だよっ」
音也の携帯の画面に、メガネを掛けたトキヤがおさげのウィッグを被り黒いセーラー服を着ている姿が写っていた。
不機嫌そうにカメラを睨んでいる。
彼に何度もねだられて末に撮られた写真のはずだ。
「これがトキヤの女装でーす! トキヤファンのみんな、どうどうっ?」
音也が携帯の画面をカメラに向ける。
過去の醜態が全国に放送されるかと思うと頭が痛い。
「……格好が古くない? 何でその格好?」
「メガネと三つ編みのセーラー服とは意外な女装ですね」
「女学生とはそういうものだと思うんですが」
「ええっ、今時の子はこういう髪型はあんまりしないと思いますよ」
「一ノ瀬君、本当に20歳? 実は俺と同年代だろ?」
「不評ですね……。次回があれば善処します」
「えー、イチコちゃん可愛いのになあ。トキヤがイチコちゃんなら付き合ってたのに」
携帯を手放した音也が笑う。
女性司会者がクスクス笑いながらトキヤに話を振った。
「一ノ瀬さんはもしご自身が女性だったら、一十木さんと付き合いたいと思いますか?」
「いえ、私は遠慮しておきます」
問いかけにざわめく心には気づかない振りをする。
「えー、どーして?」
「……毎日うるさそうなので」
「だーかーらー、元気って言ってってばあ」
「こんな風に近くで騒がれ続けるのはあまり……」
「じゃあ、一十木君が女の子だったら?」
男性司会者の質問にトキヤは眉を寄せて笑う。
「ちょっと想像したくないです」
「ボーイッシュな女の子になりそうですねえ」
「あ、俺が女の子でもトキヤと付き合ってた! トキヤって大事にしてくれそー」
「だから、私はあなたと付き合いません。ふざけた事言わないでくださいっ」
「え? 俺、ふざけてないけど?」
真顔で言う音也を見たトキヤは瞬いた。
「仲良しすぎるだろーっ。でも、いいねえ、そんな風な友達がいてさ」
「はい、すごく羨ましいですっ」
「うん、トキヤは俺の自慢の友達だよ!」
「ここで、次はおふたりに答えてもらったアンケート結果を見てみましょう!」
女性司会者がカメラに向かって微笑みかける。
収録はアンケート結果へのコメント、トキヤと音也がそれぞれ出演する番組の宣伝をして終えた。
終了の合図を聞いて、ようやく解放されたと感じるのは初めてだった。



司会者たちやスタッフに挨拶をして、音也の顔をまともに見ずにトキヤはトイレへと向かった。
人通りの少ない場所を選び、個室へと入る。
ドアに背中を押しつけて、唇を噛みしめる。
泣くな。こんなところで。誰が来るかも分からないのに。
必死に念じて、自分に言い聞かせても無意味だった。
視界が揺らいで滲み、何も見えない。
噛みしめているはずの唇が震える。
音也の言葉が耳の奥に響いた気がした。
『もしトキヤが女の子だったら』
『俺が女の子でも』
瞬きをすれば、まつ毛と下瞼が濡れてしまった。
『トキヤと付き合ってた!』
トキヤに無邪気な笑みで微笑みかける音也の顔が浮かぶ。
「っ……」
堪え切れずに嗚咽が漏れる。
そんな事、もう今までに何度思ったか分からない。
数え切れないほどに、"もしそうなら"と思ってきた。
もしもそうだったなら、きっとこんな思いはしなかった。
いつかはこの思いを告げる事ができていて、例え振られてしまっても、それで諦められたかもしれない。
もしかしたら、もしかすれば、気持ちを受け入れてくれて、トキヤは今もなおあの頃と変わらぬ幸せの中にいれたかもしれない。
けれど、トキヤも音也も男同士だ。
どんなに"もしも"を思っても、それは変わらない。
結局、気持ちを伝える事すらもできず、かと言って捨ててしまう事もできずにズルズルと引きずり続けている。
不毛だ。
何も生まれてこない。
ただ苦しんでいるだけなのに、過去を懐かしがってばかりいるだけなのに。
音也の『自慢の友達』という言葉に舞い上がりたくなりながらも大泣きしたくなる。
『もし女の子なら付き合ってる』なんて笑い話に、こんな風にトイレに籠って泣いている。
こんな事を繰り返していても、何の意味もない。
今すぐにこの恋に見切りをつけて、音也とは本当の友人になるべきだ。
それは分かっているのに、涙は止まらない。
目を赤くして楽屋に戻れば、音也は何て言うでしょうね。
……心配してくれるなら、それも悪くないかもしれません。
トキヤはそう考えて小さく笑う。
音也が心配そうな顔でトキヤを見つめてくれるのを想像しただけで、気持ちは高ぶる。
だけど、トキヤは音也の前で完璧に"友人"として立ち振る舞わなければならない。
この感情に気づかれてしまえば、今までのように彼は笑ってくれなくなってしまう。
何事もなかったかのように楽屋に戻って、今の収録での音也の反省点や及第点を叱りつけて、最後に少しだけ誉めてやるのがトキヤの役目だ。
きっと音也は聞いているような聞いていないような態度を取るんでしょうが。
そう思いながら、トキヤはポケットに入れていた腕時計で時間を確認する。
これ以上ここにいれば楽屋に戻った時に音也が「どこ行ってたのー?」と騒ぐだろう。
大きく深呼吸を繰り返して、呼吸を整える。
服の袖で涙を拭う。
けれど、個室のドアを開けた瞬間に片目からまた涙がこぼれた。
顔を洗ってその涙を流そうと洗面台に近づいた時、人が入ってきた。
「あっ、トキヤ。……えっ、あれ……泣いてる?」
「音、也」
トキヤは全身の血の気が引くのを感じた。
寄りにもよって音也に見られるなんて。
呆然と音也を見ていると、彼は戸惑った様子でゆっくりとトキヤに歩み寄ってきた。
思えば、音也の前で泣いている姿を見せるのは初めてだ。
涙を拭う事も顔を背ける事もできずに、ただ側に来る音也を見つめてしまう。
彼は眉を寄せて、悲しそうな、怯えたような、困惑したような顔をしている。
そしてトキヤの真横まで来た音也は不意に伸ばした両腕をトキヤの背中に回した。
音也の名前を呼んだが、声にならなかった。
背中に回された彼の腕は力強い。
学生の頃や以前にも音也がトキヤにくっついてくる事はあった。
つい数十分前、楽屋に入った瞬間にも音也はそうしてきた。
けれど、そのどれもが"抱きついてくる"としか呼べないようなものだったのに、今は確かに音也に抱きしめられていた。
「えっと、あの、だ、大丈夫だから! トキヤなら大丈夫だって! えーっと、よしよし、……なっ?」
狼狽しながらも音也はトキヤの髪を撫でて、そんな事を言う。
泣いているトキヤをこんなにも慰めようとしてくれている。
『誰のせいで』と詰る気にもならない。
だけど、このままではいられない。
泣いていた理由は死んでも音也には話せない。
「俺、何にも出来ないかもしんないけど、その、できる事なら何でもするし、それに」
「……音也」
「なに?」
声に出して名前を呼べば、音也の優しい声がトキヤの耳に囁きかける。
暖かさと優しさを放してしまいたくない欲を打ち捨てて、音也の体をぐいと引き剥がした。
その瞬間から、彼の体温も匂いも分からなくなった。
未練がましさと愛しさを乗せて、深く溜息を吐いた。
「……コンタクトのせいで目が痛んでいるだけなので、そんなに大騒ぎするのは止めてください」
「えっ? コンタクトぉ?」
トキヤが右手を目に当てながら怒った口調で言えば、音也は気の抜けた声を出す。
表情が一転して、困ったような笑顔になった。
ベタな誤魔化しを真に受ける彼の鈍さに感謝をしながら話を続ける。
「そうですよ。まったく……、勝手に勘違いして突っ走るのはよしなさい」
「だって、トキヤが泣いてたから! 俺、もうびっくりして、どうしたらいいか分かんなかったんだよ」
「あなたに出来ることはありませんよ。さっさと用を済ませてください。私はもう少しここにいます」
鏡に向かい合って、自分の目を覗きこむ素振りを見せた。
もちろん目のどこも痛くはない。
下瞼を触っていると、鏡越しに音也が首を振ったのが見えた。
「ううん、トキヤが戻ってこないからどうしたのかなあと思って探しに来ただけなんだ」
「……それはご足労を掛けましたね」
「じゃ、先に楽屋戻ってるから」
そう言い残して彼はトイレを出ていった。
トキヤはその背中を見送ってから、また泣きたくなる気持ちをこらえた。
たった今流れた涙とは正反対の理由だ。
嬉しくって仕方がなかった。
音也が好きで、愛しくて堪らなかった。
鏡に映る自分を見れば、赤くした目を細めて微笑んでいる。
レンの言うとおりだ。
トキヤは音也と出会った最初から振りまわされてばかりだ。
あんなに涙が流れたのに、今は微笑んでいる。
音也の言葉にショックを受けたかと思えば、音也の行動に胸を躍らせる。
音也を単純だと何度も言ったけれど、これでは人の事は言えない。
蛇口に手を伸ばして、冷たい水で顔を洗う。
長居をすれば他の誰かが来るだろうし、音也がまた様子を見にくるかもしれない。
何度か顔を洗う事で気持ちを落ち着かせ、トキヤはようやく楽屋へと戻った。

「おかえりー、もう大丈夫?」
椅子に腰かけて携帯をいじっていた音也が顔を上げてトキヤを迎える。
「ええ、何ともないですよ」
「そか、よかった。あー、今日の収録、ほんっとに楽しかったなあ。トキヤとも久しぶりに共演できたし、学生の頃を振り返れたしさ。トキヤは?」
「……そうですね、それなりには楽しかったです」
テーブルを挟んで向かいに座ったトキヤが素っ気ない態度を取っても、それに慣れ切っている音也は小さく声を立てて笑う。
「皆で撮った写真とか、イチコちゃんとか、すごく懐かしいよ」
彼の言葉に、トキヤは何秒も躊躇ってから、意を決して口を開く。
音也の為でもあるし、トキヤがもうトイレで泣かない為でもある。
「そういえば、音也」
「んっ?」
「――……、あなたの発言は度が過ぎます。本物だと思われても知りませんよ」
「本物って?」
「……だから、『付き合う』だの『好き』だのと本気で私に言っているとファンの方々に思われてしまいますよ、という意味です。醜聞が立つだけですよ」
またいつかこんな風に共演した時に、今回と同じような話はしてほしくない。
次はカメラの前で失態を犯してしまうかもしれない。
だから、そんな風な事はもう言ってほしくない。
トキヤの言葉を聞いた音也は小さく頷いた。
「ああ、そっかあ……。だけど、トキヤはさあ」
トキヤの好きな微笑みを浮かべた音也が小首を傾げる。
赤い前髪が額でさらりと流れた。
少し狭い部屋にふたりだけでいるせいか、あの部屋に帰っているような気がした。
「俺が本当にそのつもりじゃないって知ってるじゃん」
音也の双眸を見つめて、トキヤは大きく頷く。
「もちろんです」
奇跡的に、声は掠れもせず、裏返りもしなかった。
頭の中が真っ白に染まって、それどころではないのかもしれない。
感情が何も湧きあがってこない。
「じゃあ、それでいいと思うけど。そうだ、俺もう行かなきゃ! またなっ、絶対皆でご飯行こ!」
時間を見た音也が慌ただしく楽屋を出ていった。
トキヤはまたその背中を見送る。
「ええ、連絡しておきましょう」
もう音也には聞こえないのは分かっていたが、それだけ呟く。
ゆっくりと瞼を閉じて、テーブルに伏せる。
言われなくたって分かっていたけど、言ってほしくなかった。
不毛だとは知っているけれど、ずっと抱いていたかった。
友人に戻りたかったのは本当だけど、できるなら恋人になりたかった。
トキヤは指を頬に当ててみるが、指先は濡れなかった。
泣いているかと思ったが、涙は出ていない。
今夜眠って、次に目が覚めた時、一番最初にあの部屋に足を踏み入れた時に戻っていればどれだけいいだろう。
そうすれば、トキヤは音也の良き友人としての道を歩みなおすのだ。
誰にも知られぬように、音也を想って泣く人生など忘れて。