ドラマの狭間
窓の外が夕焼けに染まった頃、家のチャイムが鳴り、インターホンの画面に見慣れた姿が映った。
落ち着かなさそうにしているその姿を一瞥し、スリッパをぱたぱた鳴らして玄関へと向かった。
解錠したドアを押し開くと、マンションの廊下に立っていた音也がはにかむ。
「へへ、お待たせ」
微笑みかけて小首を傾げる。
彼を中に迎え入れ、ドアを完全に閉めてから声を発した。
「いらっしゃい、音也くんっ」
HAYATOが明るく言うと音也は「お邪魔します」とまた照れたように笑う。
いつもより大人しい印象を受けながらも、スリッパを履かせた彼の背中を押してリビングに行く。
「コーヒー淹れたんだけど飲む?」
「の、飲む! あ、でも」
「はーい、ちょっと待ってね」
赤いソファーに座った音也が何かを言いかけるが構わずにHAYATOはリビングの隣にあるキッチンへと入った。
カウンターとなっているそこからは音也の様子を見ることができる。
彼はきょろきょろとしながらリビングを見回し、HAYATOを見る。
やはり普段とは様子が違う。
そう思いながらHAYATOは先程コーヒーメーカーで淹れたコーヒーをふたつのコーヒーカップに注ぐ。
その内のひとつにはミルクと砂糖をたっぷりと入れてかき混ぜ、少し迷ってからもうひとつにミルクをほんの少しだけ入れる。
ソーサーに置いたふたつのカップとクッキーを盛った皿を載せたトレーを持ち、音也の元へと戻った。
「はい、どーぞ」
ソファーの前のローテーブルに、音也の方にはミルクと砂糖を入れたカップを置き、その隣に皿ともうひとつのカップを置く。
「あっ、ありがとう」
ベージュ色をしたコーヒーの水面を見た音也はほっとした顔になる。
HAYATOはそんな彼の右隣に30センチほど距離を開けて腰掛ける。
自分のコーヒーを口にすると普段より甘い味がした。
番組での共演後に楽屋で告白されて、音也と付き合い始めてから2週間程経っていた。
その間は毎日メールや電話をしていたが、会うのは今日が初めてだ。
とは言っても、2時間後にはまたふたりとも仕事に行かなければならない。
カップを手に黙っている音也を横目で見て、HAYATOはこの2時間をどうしようかと考えた。
何も計画していなかったことにようやく気づき、普通ならどうするのかと思考を巡らせても分からない。
いつもなら好き勝手に喋る音也も何故か口を閉ざしている。
この状況に困惑しながらカップをソーサーに戻すと、正面にあるテレビが目に付いた。
「……音也くん! テレビ見よっ、テレビ!」
「えっ、うん、いいよ」
HAYATOの勢いに微かに驚いた様子を見せながらも、音也は頷く。
「何がいいかにゃー」
そう呟きながらテレビを付けて、地上波のチャンネルを一通り巡った後に衛星放送のチャンネルに映る。
ある洋画が映っているチャンネルに行き当たり、手を止めた。
俳優と背景に見覚えのあるそれは、昔から好きな映画のものだった。
「あっ、これ好きなんだー。見たことある?」
「ううん。それ見よっか」
音也がそう言いながら高い音を立ててカップを置く。
「……HAYATOとこんな風にテレビ見るのって初めてだけど、何か変な感じがする」
HAYATOはテレビを見つめている音也の横顔を一目見た後に、視線を膝に落とした。
「なんで?」
思っていたより小さな声しか出ず、咳払いをする。
「うん、前まではテレビに映ってるHAYATOを見てるだけだったからさ」
昔を懐かしむ声で音也は言った。
「ああ、そっかあ」
「ねっ、これってどんな話なの?」
音也に問われ、HAYATOは目を上げて画面を指した。
「今画面に出てる右側の男の人が主役で、さっき一瞬映った女の人がヒロインで王女様なんだけど――」
HAYATOが映画のあらすじを説明するのを彼はうんうんと頷いて聞く。
一通り語れば、彼は期待を込めた視線でHAYATOを見る。
「じゃあ、王女様が本当の自分を見つけて主人公とくっついてハッピーエンド?」
「それはお楽しみー」
「それもそうか」
明るく言って笑えば音也も笑った。
彼はまたコーヒーを一口飲んでから、ソファーに背を預ける。
そして、ひとつだけ置いてあるクッションに手を伸ばして抱え込んだ。
それを見ていると、「あっ、ごめん。使う?」と差し出されたが首を振る。
「音也くんが使っていいよ」
「ほんと? ありがと」
音也はそれだけ言って腕の中にクッションを戻し、テレビを見つめた。
そして彼はまた沈黙する。
それから10分程経った頃に、HAYATOは顔をテレビに向けたまま、横目で音也の様子を伺った。
彼は自分の前髪を弄り、小さく息を吐いた。
いつもなら喜んで食べるクッキーに手を伸ばす気配もない。
コメディなシーンにも小さく笑みを浮かべるだけだ。
HAYATOは何かを言おうとしたが、何を言えばいいか分からずに口をつぐむ。
貴重な時間はどんどんと減っていった。
テレビからヒロインが楽しそうに笑う声がして、釣られてそちらを見る。
こっちはもう10分も会話がないのにと少し恨めしい気持ちになった。
「服」
「えっ?」
不意に聞こえた音也の声が聞きとれずに聞き返した。
音也は少し困ったような照れたように笑っている。
「HAYATOの服、可愛いね」
彼の視線を辿れば、自分が着ている服に注がれていた。
少し緩いデニムに明るい水色のシャツと白のカーディガンを羽織った格好を見下ろし、カーディガンの裾を引っ張る。
どれも数日前に仕事の空いた時間を縫って店で選んで買ったものだ。
「ほんと? この前買ってきたんだっ」
「似合ってるよ」
「えへへ、ありがと」
HAYATOは髪を撫でつけて照れる気持ちを落ち着かせようとしながら笑う。
音也が抱えていたクッションを左に置いた。
そして少し開いていたHAYATOとの距離を詰めてくる。
彼の右手とHAYATOの左手が重なり、暖かな温もりが伝わってくる。
少し冷たくなっていた自分の手が温められる。
「……HAYATO」
「んー?」
音也が低い声で名前を呼ぶ。
その声音に甘い響きを確かに感じたHAYATOは羞恥のせいで音也の方を見る事ができなかった。
重なっている手がHAYATOの手を握る。
音也の手は自分のものより少し大きくて厚い。
「こっち向いて?」
「ん、うん……」
HAYATOが顔だけは音也に向けたが、目を合わせられない。
何度も瞬きをしながら目を伏せていると、音也が微かに笑う。
「可愛い」
「お、男に可愛いって言ったってしょうがないよっ」
顔が熱くなるのを感じながらHAYATOは少し声を荒げた。
音也の右胸を弱く叩いても、彼は全く引かない。
「だって、HAYATOが可愛いんだからしょうがないじゃん」
音也の左手が目に掛かっていたHAYATOの前髪を耳に掻き上げた。
その手が滑り、頬に当てられる。
「……顔赤いよ」
「そんなこと」
「自分でも分かってるくせに」
顔を寄せてきた音也に思わず視線を向ける。
至近距離で見えた音也の目はすぐに瞼に隠れた。
唇に音也のものが触れる。
HAYATOは瞼を強く閉じて、呼吸を止める。
心臓が張り裂けそうだ。
頭の中が真っ白になり、何も考えられない。
少しして、音也が唇を離す。
しかし、HAYATOが息を吸い込むのと同時にまた触れ合う。
音也の手が髪を梳く。
テレビから聞こえてくるはずのセリフは無音になっていた。
互いの一本一本の指が強く絡まり合う。
音也の唇が微かに開き、HAYATOの下唇を濡れたものが細くなぞる。
「HAYATO、好き」
ほんの少しだけ唇を離した彼が囁くように言う。
今までに聞いたことのない声に胸を震わせながら、HAYATOは頷いた。
「ボクも、音也くんが……好き」
掠れた声で答える。
その瞬間に音也は再度キスをしてきて、今度は舌で確かにHAYATOの唇を撫でた。
「んっ」
少し怯んで薄く開いた唇にそれが割り込んでくる。
HAYATOは右手を音也の背中に回してしがみつく。
口内に入り込んだ音也の舌は、HAYATOのそれに絡みこすりあわせてくる。
「ん、ぁっ」
HAYATOが息を漏らせば、音也の左手に体を強く抱き寄せられる。
頭を動かして逃れようとしても、その手で動きを止められる。
歯列をなぞり、上顎を擽る舌の動きに翻弄される。
ふと瞼を開けると赤色が見えた。
音也の目を見ていられずに瞼を閉じると彼が笑う。
それが悔しく思えて、HAYATOから舌を絡ませる。
途端にキスが噛みつくようなものに変わる。
「はっ……音……也、くんっ……」
途切れ途切れに名前を呼べば、絡んでいた指がほどかれて両腕で抱き締められた。
痛くて苦しいほどの力だが、離してほしいとは思わない。
それどころか、ずっと抱き締めていてほしいとさえ望んでしまう。
口の端から混じり合った唾液が幾筋も伝っても、酸素不足で頭がくらくらしても、音也とHAYATOは離れずにいた。
「……大丈夫?」
しばらくしてキスを止めた時には、HAYATOは完全に息切れをしていた。
音也の肩に額を預けて呼吸を整えていると、彼が気遣わしげに言う。
声が出ずに頷くHAYATOの背を彼が撫でた。
暖かな体温とその手の優しさに眠ってしまいそうになる。
けれど、HAYATOは大きく息を吸い込んで顔を上げた。
「音也くん……」
「なに?」
音也に促され、HAYATOは彼の目をまっすぐに見つめる。
「――好き。好き、……すき」
そう言って、もう一度音也の肩に顔を埋める。
両腕を音也の背中に回せば、彼もHAYATOを抱き寄せてより密着する。
髪に頬を擦り寄せられてくすぐったい。
「へへ、すっごく嬉しい。俺も好き」
耳元にそう囁かれ、目を閉じる。
「好き」というたった二文字の言葉が世界をこんなに変えるなんて今まで知らなかった。
自分の好きな人が、自分に向かってその二文字を告げてくれるだけで、世界は眩しくて暖かくなる。
音也はいつでも自分を照らしていてくれたけれど、その光がさらに明るく見える。
目が眩むほどの光以外にはもう何も見えない。
「HAYATO」
名前を呼ばれて顔を上げると、触れるだけのキスをされる。
HAYATOは離れていく唇を追い、自分から口づけた。
「ほんっと可愛い」
音也が微笑んだ。
今までに見たことがない表情だ。
今日だけで何度も重ねた唇は大きく弧を描き、大きくて丸い目は細められて、赤い瞳に愛しさや慈しみ、優しさが籠もっている。
その瞳を見つめて視線を少しも漏らす事のないようにじっと受け止める。
「あー、好き、大好き」
呟くようなその声にも視線と同じものが込められていた。
その声は鼓膜を震わせて、心に深く染み込んでいく。
前までは、音也が隣で笑っているだけで幸せだと思っていた。
けれど、もっと大きな幸福がここにある。
甘くて暖かくて優しくて、一度味わえば二度と手放せなくなるようなそれに、HAYATOは目を閉じた。
小さく笑った音也が髪と頬を撫で、キスをする。
ずっとこんな風にいられるなら、ずっとこのままでもいいや。
HAYATOは心の中で思った。
「じゃあね。仕事終わったらメールするから」
「うん。ボクもするね」
時間はあっという間に過ぎ去り、別れる時間になっていた。
こちらは後20分程余裕があるが、音也はもう行かなければならない。
玄関でしゃがみこんで靴を履く音也の背中をHAYATOが見つめる。
とんとんと靴を鳴らした彼が振り向く。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい。頑張ってね!」
音也は頷き、何かを躊躇う素振りを見せてからHAYATOにほんの一瞬のキスをした。
そして悪戯っぽく笑い、ドアを開けて出て行く。
閉まったドアに鍵を掛けてから、リビングへと戻る。
テレビは映画の結末を見る事なく、音也の手によってとっくに電源を消されていて真っ暗だ。
赤いソファーの中央に座って左側を見れば、濃い紫のシミに目がいった。
その部分を撫でながら瞼を閉じる。
この2時間の事を振り返るだけで、いっぱいになった胸から溢れた感情のせいで気分は落ち着かなくなり、心臓が激しく脈打つ。
瞼の裏に蘇る音也の見た事がない視線と鼓膜に響く初めて聞いた音也の声を思い返して、クッションを強く抱き締めて顔を埋めた。
音也の匂いがした気がして、そっと吐息を漏らす。
まるで恋愛ドラマのような事を自分がするなんて。
今までに何度も演じてきたが何もかもが全く違うように思える。
後少しで出なければならないのに、顔の熱は引く気配がない。
これから音也と会った時は毎回こうなるのかと思えば、今後が少し不安になる。
それでも音也と次に会える日が待ち遠しくて堪らなかった。
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