セットの中


音也の唇が自分のものに触れている。
それを理解した瞬間、トキヤは目を見開いた。
血液が大きく音を立てながら体中を巡っている気がする。
けれど、それ以外には指一本動かすことができない。
目の前には閉じられた音也の瞼しか見えなかった。
それを見つめながら、頭の中を「何故」の言葉で埋め尽くす。
何故、音也が私にキスを?
彼に抱きつかれたことは何度もあるが、彼とキスをした事は一度もない。
じゃれあいの延長だろうか。
度が過ぎたイタズラかもしれない。
それとも。
音也も、私のことを……?
トキヤがそう思うと同時に音也がそっと離れていく。
名前を呼ぼうとしても、声が出ない。
声帯を無くしてしまったかのようだ。
今までどんなに発声練習をしてきたか分からないのに、それが全くの無意味になっていた。
音也はいつも見せる無邪気な少年のような笑顔をどこにも見せず、赤い熱を帯びた真剣な眼差しをトキヤに向けていた。
彼に幾度となくじゃれられたり、からかわれたことはあるが、こんな目で見られたことはない。
本当に?
いつだったか、同じ目をしていた気が……。
そんな事を考えている間も、トキヤの声は出そうにない。
肩に載せられた音也の手に力がこもった。
音也は一度目を伏せて眉をギュッと寄せ、唇を強く結ぶ。
しかし、すぐにトキヤと向き合って唇を開いた。
「……好き」
音也の低く小さな声。
それでもトキヤの耳には、大音量で心に響いた。
これまでに彼が何度も口にしてきて、トキヤが数ヶ月前に咎めたものと同じ言葉だ。
だけど、今までとは意味が違う事はトキヤにも分かった。
同じそれをトキヤはもう3年も抱えてきている。
そして音也がいつかそれを口にしてくれないかとずっと熱望していた。
「好き、大好きだ」
繰り返される言葉を聞きながら、また心の中で音也に問い掛ける。
何故、あなたが私を? どうして? 本当に?
理由は分からない。
だけど、音也が本気でそう言っている事は彼の目を見れば分かる。
「……音」
トキヤは掠れた声で音也を呼ぼうとした。
目の前にある、一生手に入れられないと思っていた幸せのせいで顔は熱いし、心臓はうるさくて、手が震える。
目はジンとして、頭はぼうっとする。
そんなトキヤを音也は少し泣きそうな顔で見つめて微笑んだ。
「俺、ずっと好きだったんだ。HAYATOのこと」
心臓が一度大きく跳ねたのを最後に動きを止めたように感じた。
一瞬にして、トキヤは熱と幸福を見失った。
もうどこにも見当たらない。
違う誰かが持って行ってしまった。
冷たさと絶望しか見えない。
「学生の頃から好きでさ、テレビでいつもHAYATOのこと見てたんだ」
反して、音也は更に熱を上げた口振りで言う。
あの部屋にいた頃、音也と並んで赤いソファーに座ってHAYATOが出演した番組をいくつも見た。
歌番組、ドラマ、バラエティー、映画。
内容がどれだけくだらないものでも、音也は全ての番組を目を輝かせて熱心に見ていた。
HAYATOの演技を見て笑ったり涙ぐんだりしていた。
「HAYATOってほんとすごいよ」と何度も言っていた。
ふと、トキヤは音也の熱を帯びた視線をどこで見たのかを思い出した。


その日は日曜日だった。
一週間毎日早朝から深夜まで埋まっていたHAYATOの仕事をようやく終えた翌日で、トキヤは精神的にかなり困憊していた。
どこにいても「HAYATO」と呼ばれる中で、バカみたいにへらへら笑い、真面目さの感じられない口調で喋るという自分と全く違う人間のHAYATOを演じるのが死にたくなるほど嫌になっていた。
HAYATOとしてデビューするのではなかったと深く後悔していた。
歌いたい歌もまともに歌えず、低俗な事しかしていないHAYATOなど一刻も早く辞めたかった。
そう思いながら、ベッドの中から抜け出せずにいると、音也が声を掛けてきた。
「一緒にHAYATOの映画見ようよ」と。
こんな気持ちでそんなものを見たい訳がなかった。
自分のバカな演技をテレビを通して客観視することで、きっとより一層HAYATOを憎んでしまうだろう。
トキヤは「見たくないです」と拒んだが、音也に無理やりに赤いソファーに座らされて、彼が借りてきたHAYATOの映画を見ることになってしまった。
映画は、トキヤが早乙女学園に入学する前に撮った学園青春コメディだった。
HAYATOが演じる主人公は最初はクラスの中で浮いていた存在だったが、合唱コンクールでの優勝を目指してクラスメイトたちを巻き込んで奮闘していく姿を描いている。
合唱コンクールに協力してくれるクラスメイトを探して校内を走り回るHAYATOの姿を見ながら、トキヤはさらに心の中を荒れさせた。
HAYATOなんて馬鹿で低俗なだけで嫌いだ。
投げ捨ててしまいたい。
そんな事をずっと考えながら2時間耐えて、ようやくテレビはエンドロールを映し始めた。
「見るの3回目だけど、面白かったー!」
音也が大きく伸びをしながら言った。
彼にしては珍しくあまり喋っていなかった事に今さら気づく。
「……他のDVDを借りた方があなたにとってもよっぽど有意義でしたよ。お金をどぶに捨てたようなものですね」
トキヤは目を閉じて、肘掛けにもたれるようにしながら、低い声で言う。
「えっ、ちゃんと店員さんにお金払ったって」
「……」
音也の勘違いを正してやる気にもならない。
トキヤの頭の中には、どうすれば今日にでもHAYATOを辞められるかという考えしかなかった。
「ほんっとよかったなあ……。一緒に歌ってくれる奴探してるとことか本当に面白いよね。あっ、優勝を諦めそうになったところあるじゃん。校庭の隅で、ひとりでさ。俺、あの時のHAYATOの表情が好きなんだ。泣きそうになってるの見て、俺も泣きそうになっちゃう。悔しくて諦めたくないんだけど、『あ〜、どうしよ〜、もう無理なのかなあ』って思ってるのが心まで伝わってくるんだ。あんな演技、他の奴にはできないよ。そうそう、何よりも合唱聞いてると思うんだけど、やっぱりHAYATOって歌うまいよなー。ソロで歌う場面とかあったらよかったのになあ」
「………………全く共感できません」
ひとりで感想を喋っていた音也を薄目で見て、トキヤは小さく頭を振った。
もっと気分が良い時なら、音也がHAYATOを誉める言葉は聞いていて照れくさくはあるが嬉しいのに、今は却ってトキヤの気持ちを暗いものにするだけだった。
音也が気分を害した顔をして体を寄せてくる。
「まーたそんな事言う」
「事実です。あれくらいの役は誰にでも出来ます」
「俺、主役がHAYATOだから3回も見たんだよ」
「くだらない演技を見て満足してるようでは、あなたも伸びませんよ。HAYATOは演技の詰めも甘いですし、合唱だってもっと上手く歌えないのかと聞いていてイライラしました」
「そんな事ないよ」
音也が静かに言った。
けれど、丸く大きな目には熱があっていつになく真剣みがあった。
「お前っていっつもそうだ。HAYATOのことしょっちゅう貶すよね。だけどさ、
演技がダメとか、歌がダメとか、くだらないとか低俗って思うのは、HAYATOにもっとよくなってほしいからだろ」
優しい声で言った音也に、トキヤは瞬いた。
「……よくなってほしいから?」
自分の中に全く無かった考えに触れて、トキヤは戸惑った。
音也は頷いて、小さな子どもに話すような口振りで話を続ける。
「トキヤ、素直になれないだけで本当はHAYATOのこと大事で好きなんだよ」
「…………」
トキヤは否定の言葉を言えずにいた。
「俺、HAYATOの演技好きだな。もちろんトキヤのも大好きだよ。トキヤとHAYATOの歌を聞いたり、演技見てると『ふたりに追いつけるよう、ほんとに頑張らなくちゃ』って思うんだ」
「……なら、せいぜい頑張ってくださいね」
「もちろん!」
音也が明るく笑ったのを見て、トキヤも小さく微笑んだ。


トキヤは音也の言葉のお陰で、見失いかけたHAYATOへの想いを再び取り戻した。
音也の言うとおりだ。
HAYATOの事を憎んでいる訳ではない。
演じることだって疲れはするものの、嫌いではない。
ただ、自分を一ノ瀬トキヤとして周囲に認められたいだけだ。
その為に、この学園へと来たのだ。
その言葉の後、トキヤはどれほど疲労してもHAYATOを憎むことは二度となかった。

だから、あなたはあの時あんな目をしていたんですね。
トキヤが胸の内で呟く。
HAYATOの事を好きだったから、あんなに憧れて、誉めて、貶す私を諭したんですね。
鏡には彼が誉め立てたHAYATOが映っている。
トキヤがずっと欲しくて欲しくて、どうしようもないほどに欲しかった光を簡単に手にした男だ。
「だから、HAYATOと共演出来て、俺すっげー楽しくて嬉しかった! もうお別れなんて、俺は嫌だよ……」
眉を下げて悲しそうな顔でこちらを見る音也を見つめ返す。
どうしても彼に確かめたい事がある。
数秒躊躇った後、HAYATOが恐る恐る唇を開いた。
「――トキヤは?」
トキヤがHAYATOを演じているのは、音也も重々承知しているはずだ。
打ち合わせの時に、目の前で切り替わって見せた。
それでも、音也は「HAYATOがいい」と言うのだろうか。
音也は怒られる事を覚悟している子どものような顔をした。
上目がちにこちらの様子を窺う。
大きな目を瞬かせて、消え入りそうな小さい声で答える。
「……HAYATOが、トキヤなの、知ってるけど……、…………でも、俺は、HAYATOが好きなんだ」
途切れ途切れに言われた言葉はトキヤの目の前を暗くした。
光の中で一番遠くまで届くはずの赤色の光も、ここでは全く見えなかった。
今まではずっとトキヤを照らしていたのに。
鏡に、音也からの光と幸を一身に受ける者が笑ったのが映った。
「ボクも、音也くんの事好きだよ」
甘えた声でHAYATOが答える。
途端に音也が目を輝かせた。
「ほんとにっ?」
「ほんとのほんとっ! ずっと好きだったんだから!」
嬉しそうに笑う音也がHAYATOの手を握る。
「じゃあさ、あの、俺と付き合ってよ!」
グローブ越しに伝わってくる熱い体温をHAYATOは握りしめた。
「うん!」
3年以上も望んできたものがすぐそこにあるのに、手を伸ばさずにはいられなかった。
その望みは、何度も泣いて、諦めようとしても忘れられなくて、手放せなかったのだ。
音也が望んでくれるのなら、彼が今まで以上に優しく照らしてくれるのなら、もうHAYATOでもいい。
先ほどした、『今ならHAYATOともうまくやれる』という予感はきっと間違っていない。
HAYATOは音也に心から微笑みかける。
音也は頬を赤くして、一度視線を逸らしてから顔を寄せた。
「ねえ……、キス、しよ?」
照れたように言う音也に小さく声をあげて笑う。
「さっきもうしたじゃん」
「えへへ、そうだね」
音也はHAYATOの唇を触れ合わせた。
HAYATOはそっと瞼を閉じる。
少し乾いて硬い音也の唇を感じながら、ふと脳裏に、あの部屋で並んでテレビを見ていた光景が浮かんだ。
そのテレビにはHAYATOが映っている。
セットの中でしか生きていなかったHAYATOはいつの間に外へと出てきたのだろう。
そう思いながら、音也の指に自分のものを絡めた。