ノンフィクションの人生
「なら、……じゃあ……、HAYATOとして、俺と付き合うのが嫌になった?」
音也の言葉に、HAYATOは何も言えなくなる。
何言ってるの! そんなんじゃないよ。何でそんな事言うのかにゃあ? ボクは音也くんのことだーいすきだよっ。
言うべき言葉は分かり切っているのに、それが唇から出てこない。
今すぐに否定しなければ、事態はより深刻になってしまうと理解しているのに体が動かない。
ただ目の前の音也を見つめていると、彼は笑みを深くして目を伏せた。
「……そっか、そうだよね。……泣くぐらい、傷つけてごめん」
「っ、違うよ」
HAYATOがようやく声を上げた。
音也と付き合っていて、傷ついた事は一度もない。
そんな勘違いは絶対にしてほしくない。
「傷ついてなんかないよ。ずっとずっと嬉しくって、ほんとに幸せなんだよ!」
両手で音也の右手を握りしめて、必死に本心を訴えかける。
それでも音也は目を合わせようとしない。
「だけどね、だけど……」
本当は自分が泣いてしまった理由を知っている。
どうすれば悲しみが治まるかを知っている。
音也がただ一言をくれるだけで、悲しみは一瞬にして喜びに色を変える。
「……欲が出ただけだよ。欲張りになっちゃったんだよ。これが手に入ったから、じゃああれも欲しいって」
HAYATOはそこまで言って、一度を口閉ざした。
続きを話すのは躊躇われる。
これを言ってしまえば、何もかもが終わるかもしれない。
けれど、音也が自分の事を責めながら終わりを迎えるよりはよっぽどいい。
息を吸い込み、HAYATOは言う。
「ねえ、ボクはただ、音也くんに、『HAYATO』って呼ばれるんじゃなくて……」
「トキヤ」
HAYATOが言いかけた言葉を口にした音也の苦しそうな声と顔に、息を呑んだ。
「もういいんだよ。俺の為に、本当にありがとう。トキヤ」
手から彼の手がすり抜けていって、ほんの数秒だけ抱き締められた。
そして、HAYATOの跳ねた髪を撫でつけるように梳かした。
いつの間にか外が暗くなっていて、窓ガラスに室内が反射している。
そこには、普段の髪型に戻った自分の姿が映っていた。
唇を噛みしめて、首を振った。
音也は先ほどからずっと、自分が少しも思いもしなかった事を言っている。
「……違います」
トキヤが声を絞り出す。
この数カ月、音也の前ではあの朝以外にトキヤの声を出した事はなかった。
「違うんです。決してあなたの為なんかじゃありません」
驚いたような顔をしながらも、音也は何も言わずにトキヤの話に耳を傾けてている。
「全部、私自身の為です。HAYATOとしてでも、あなたの隣にいたかった、笑ってほしかった、『好きだ』って言ってほしかったんです」
そこまで言い、静かに息を吸い込んだ。
今まで、伝える度胸も捨てる勇気がなかった胸の中にしまっていた想いも、今なら言葉にできる気がした。
「音也、ずっとあなたに言えなかった事があります」
そしてトキヤは音也に微笑みかける。
「私は、3年前からあなたが好きでした」
トキヤの想いを伝えた音也は悲しそうな顔をして俯いた。
それを見て、最初から抱いていた予想が当たっていた事を知る。
でも、不思議とそれ以上の感情を持たないままトキヤはただ音也の次の反応を待った。
次に目を合わせる時の彼はきっと申し訳なさそうな、泣きそうな顔をしているだろう。
そう思っていたのに、音也は意を決した表情をしていた。
赤色の双眸がトキヤを真剣に見つめている。
「――俺もだよ、トキヤ」
静かに囁かれた言葉を聞いて、トキヤは瞠目した。
心臓が大きく脈打ち、音也の言葉が頭で響き渡る。
「で、ですが、あなたは……『HAYATOが好きだ』って……」
予想外の返事に声が震えてしまう。
「うん、そうだね。HAYATOの事も大好きだよ。だって、トキヤがやってるんだしさ」
「でも、それを知ったのは卒業の頃でしょう?」
「学生の頃は単純に憧れてたんだ、あんな風なアイドルになりたいって」
音也の言葉を理解しようとしても、うまく繋がらない。
特番の収録後の楽屋で、音也は「学生の頃から好きだった」「トキヤじゃなくて、HAYATOが好き」だと言っていた。
「よく分かりません」
正直に困惑を口にすると、彼はすまなさそうな顔で言った。
「……ねえ、俺の本当に勝手な言い分、聞いてくれる?」
トキヤが頷く。
音也は一度視線を逸らしてから、トキヤの目を見据えて話を始めた。
「俺は、学生の頃からずっとトキヤが好きだった」
本当なら嬉しいはずの音也の言葉も、今はトキヤを混乱させ、疑問を抱かせるだけだった。
それならどうして『HAYATOが好き』だと言ったのだろう。
今までHAYATOとして音也と付き合っていたのだろう。
「本当に大事で、大切で、トキヤは俺にとって一番の友達だった。大好きでどうしようもなくって、男同士だけど、付き合って、キスとかもしたいくらい好きだった」
そう言って彼は一度微笑んだが、すぐに切なげな表情をした。
「だけどさ、俺、トキヤの事失いたくなかったんだよ。ずっと側にいてほしかった。離れるなんて絶対に嫌だったんだ」
それは私だって同じ気持ちです。
声には出さずにトキヤが思う。
「もしトキヤと付き合えても、結婚できる訳じゃないからいつかは別れるだろ。どっちかが女の子なら、結婚できて、死ぬまで一緒にいられたのにって、ずっと思ってたんだ。……トキヤが出て行っちゃったら別だけど」
寂しげに笑う音也の言葉に、未だ残っている彼の心の傷を見た気がして目を伏せる。
「……あの特番の話を受けた時、ほんっとに嬉しかった。HAYATOには憧れてたし、HAYATOを演じてるトキヤとも共演できるって」
音也は静かな声で話し続ける。
長い間渋っていたトキヤも結局は、色々なものを得られたあの特番にはすごく感謝していた。
「それでさ、トキヤってびっくりするぐらいHAYATOと完全に切り替わるじゃん。打ち合わせ始まったらめちゃくちゃ明るくなって、終わったら、さっきまでにこにこしてたのにいつもの顔に戻ったりしてさ」
「……そうですね」
あれだけ正反対の者と切り替わるには、もう一方の考えや感情が少しでも残っていればミスをすると知っているとHAYATOの時代に十分すぎるほど学んでいたからだ。
「だから、……『HAYATO』となら、付き合って、もし別れちゃっても、……『トキヤ』は俺と友達でいてくれると思ったんだ」
痛みに耐えているような表情で音也は言った。
なるほど、確かに勝手な言い分だ。
そう思いながらも、トキヤは彼を全く憎めなかった。
「特番の収録の後、HAYATOが『お別れか』って言ったのを聞いて、すごく焦った。HAYATOとそのまま別れたら、トキヤの事好きなまま、だけどいつまでも告白できないまま終わっちゃいそうでさ。だから、HAYATOに告白したんだ」
「……あなたは、私の気持ちに気づいていたんですか? 突然キスなんかして……」
告白の前にキスをされた事を思い返し、トキヤは眉をひそめた。
先ほどから音也は、HAYATOやトキヤと付き合える事を前提に話をしている。
この3年間音也にも誰にもこの気持ちを知られないようにしてきたつもりだった。
それが、ずっと音也に知られていたとなると、あまりの恥ずかしさに消えてしまいたくなる。
「ううん、全然知らなかった。俺だけが好きなんだと思ってた。でも、トキヤもHAYATOも優しいからさ、きっと俺がお願いしたら付き合ってくれると思って」
目を細めた彼に見つめられながらも、トキヤは更に顔をしかめて首を振る。
「優しいつもりはありませんが、いくらなんでも好きでもない人とは付き合いませんよ」
「そっか。……トキヤ、本当に自分勝手でごめんな」
「……そんな事は」
音也が息を吐いて、コーヒーを口にする。
そして、少し間を置いて、再び開口した。
「この前から、……寝起きにトキヤとして喋ってから、俺の事避けてたよね」
気づかれていたとは思わなかったトキヤは不意を突かれ、唇を結んで肯定を示してしまう。
彼の懐かしむような眼差しが部屋の隅へと向けられた。
「あのまま距離置いてたら別れちゃいそうで、俺必死で追ってたんだ」
「あれは、音也と付き合い続ける為にしたんです」
そう呟くと、音也は首を傾げて目を丸くした。
「えっ? なんで付き合う為に避けられんの?」
「同じ間違いを繰り返して、あの時のあなたの顔をもう一度見るのが怖かったんです」
「俺どんな顔してた?」
あの視線が脳裏に浮かんで暗い顔をすると、反対に音也は不思議そうな顔をした。
反応に訝しみながらも答える。
「……傷ついたような悲しむような、責めるような顔でした」
「俺は、もうこんな事止めた方がいいかな、トキヤも辛いよなって思ってたんだけど……。そう見えたんならごめん」
心苦しそうな顔をされて、トキヤが瞬きをした。
そういえば、視線の中には確かに憐憫も込められていた。
心に根付いていた不安が姿を消していくのを感じて、そっと息を漏らす。
「……そうだったんですか。では、写真立ては?」
もうひとつ、心に影を落とした要因を追及すると、音也はますます申し訳なさそうにする。
「トキヤとの? 気づいてたんだ……」
トキヤは微かに頷いて、彼を注視する。
「俺ってトキヤと違って器用じゃないから、トキヤの写真見た後にHAYATOを見たら、『トキヤ』って呼んじゃいそうで、だから見ないようにしてたんだ。後でちゃんと元に戻さないと」
確かに音也ならやりかねないだろう。
トキヤは微かに緩んだ口元を手で覆って隠した。
音也が口を開くたびに、トキヤの心に光が差し込んでくるのを感じていた。
HAYATOが持っていってしまったと思っていた光が戻ってきていた。
赤色のそれは、やはり暖かくて眩しい。
「さっきのドラマさもさ、トキヤと見たなぁって懐かしくって、それに、トキヤみたいなHAYATOを見てて、トキヤはこのままでいいのかなぁって思ってた。だけど、それを聞くのも怖かった。それで『もう嫌』って言われて、別れるのがイヤだったんだ」
その言葉で、どうしてあんなに陰りを帯びた表情をしていたのかを知る。
音也は長く息を吐き出して、姿勢を正してトキヤと向き合った。
「……俺のわがままに付き合ってくれて、本当にありがとう。トキヤ、HAYATO」
微かな声で音也が言い、額をトキヤの肩に預けた。
赤い髪の毛が頬や首筋をくすぐる。
少し躊躇った後に、トキヤは手を彼の二の腕に置いた。
「俺、トキヤがどれだけ努力してくれたか分かってるつもりだよ。HAYATOっぽい服着てくれて、いっつもブラックで飲んでるコーヒーにミルク入れてさ。メールもHAYATOの文章で打ってくれたし、それに、えっちの時も」
「だ、黙りなさい! それに、別に努力なんてしてません」
「そう?」
「……さっきも言いましたが、あなたのわがままに付き合ったのではありません。好きでやっていただけです」
「俺の事が好きで?」
顔を上げた音也に丸い目で見つめられ、途端にトキヤの顔の熱が上がった。
「ち、が、……私の意思でHAYATOを演じていたという話ですっ!」
「じゃあ、何でHAYATOを演じてくれてたの?」
「それは、つまり」
「……俺もトキヤが好きだよ。大好き」
唇が額に落とされる。
視界に入る喉元から目を逸らし、トキヤは口ごもりながら言った。
「俺、も、って何ですか」
「さっきはすんなり言ってくれたのに……。やっぱりトキヤってHAYATOとぜーんぜん違う」
少し拗ねた風に言われて反論できずに黙っていると、音也がトキヤを緩く抱き締めた。
首筋に顔が埋められる。
「だけど、そこが好き。トキヤの素直じゃないとこが可愛くって大好き。本当はすっごく優しいとこが大好き。いつでも頑張ってるトキヤが大好き」
「っ、うるさいですよ!」
叱りつけながらも、ずっと長い間欲しかった愛の言葉と、首に掛かる息のせいで、全身の体温が上がっていく。
視界が少し滲んでいるのはきっと上昇した熱のせいだ。
胸が高鳴ってやまないのも、音也の事以外何も考えられないのも、全てそのせいだ。
嬉しくて堪らない。
幸せで仕方がない。
HAYATOに「好き」と言ってもらえるのだって、本当に嬉しかった。
本物の彼のような音也にそう言われると、認めてもらえているという気持ちでいっぱいになった。
けれど、今はトキヤに向かってその言葉が捧げられている。
目の前の世界が鮮やかになって、輝いている。
トキヤが手にする事はできないと思っていた世界に、また涙が下瞼に溜まった。
今まで、情けないくらいに何度も辛くて悲しくて泣いてきた。
だけど、今流れそうなのは喜びの涙だ。
初めての事に戸惑いながらもトキヤが音也を抱きしめ返した時、ついに頬が濡れた。
ふと顔を上げた音也はそれに気づいて、困ったように笑いながら親指で涙を拭う。
そして、トキヤの頬に暖かな手を当てる。
「――……ねえ、トキヤ。これからも、俺とずっと一緒にいてくれる? 俺の事好きでいてくれる?」
「……ええ、誓います」
だって、嬉しくても悲しくても涙が出るくらいに音也の事が好きなんですから。
トキヤの心の声が聞こえたように、音也が心からの笑みを浮かべた。
前髪が混じり合い、鼻先が触れた。
唇が触れる寸前に、トキヤは言う。
「その代わり、あなたも誓ってくださいね」
「当たり前だよ」
嬉しそうに言った音也の唇がトキヤの唇に触れた。
赤くきらきらとした瞳が見つめてくるので、トキヤも見つめ返す。
離れてはまた重ね合いながら、音也と何度もキスをした。
甘ったるいコーヒーの味がする。
音也もきっとそう思っているだろう。
ミルクと砂糖のカロリーが気になって仕方ないが、こうやって分けあえるのなら、たまには音也と同じ物を飲むのも悪くはない。
彼の前でHAYATOを演じていなければ、ずっと知る事はなかった。
やはり、あの時の『HAYATOともうまくやれる』という予感は当たっていた。
HAYATOがいなければ、今こうして音也とは触れ合う事はなく、そしてきっと一生なかっただろう。
本当に、ありがとう。
自分の胸に呼びかけて、トキヤは微笑んだ。
リビングのいたる所に段ボール箱が積まれていた。
今からこれらを全て開けていくのかと思うと、少し気が重たい。
溜め息を吐いたトキヤは、それらから目を背けるようにテレビを付けた。
見た事があるクイズ番組のセットが映る。
再放送をしているようだ。
『では、次で最終問題です。これに正解すれば見事に賞金ゲット!』
司会者が明るい声で言う。
『一十木君頑張ってくださいね!』
『はーい、頑張りまーす』
テレビに映る音也の笑顔を見て、トキヤは小さく声を上げた。
『日本で一番長い駅名は?』
テレビの中の音也が唸りながら、深く考え込んでいる。
『えーっとねえ……うーん……』
『一十木君、どうですかー?』
『えーっ、分かんないよー!』
音也が弱った様子で首を振った。
『うう……トキヤ……』
情けない声を出す音也に、トキヤが口角を上げた。
胸の中がざわついている。
蘇るあの時の感情への懐かしさが渦巻いていた。
「トキヤ―? 片付けサボって、なーに見てんの?」
背後からぺたぺたと足音を立てて音也が近寄ってきた。
「……って、俺じゃん! うわ、懐かしー。丁度1年前の奴かな」
彼は笑いながらトキヤに抱きついて、肩に顎を乗せた。
背中と肩が一瞬にして暖かくなった。
音也はこうやっていつでもトキヤを暖めてくれる。
「ええ、そうですね」
腹部に回された音也の手に自分の右手を重ねる。
相変わらず堅くて筋張った手だ。
けれど、トキヤはその手を優しく撫でた。
「あ、そっか。見てくれたんだっけ」
トキヤが頷いた時、テレビから『トキヤーっ』と音也の情けない声が響いてきた。
画面の中の頭を抱える自分を見て、背後の音也は照れたように笑った。
1年前のトキヤはこの音也が呼ぶ声を聞いて泣いていた事を思い出すと、今がどうしようもなく愛おしくなる。
あの時はこんな風になる事を願いながらも、そうならないと信じ切っていた。
音也の手を握りしめると、指が絡められる。
「もー、恥ずかしいから消してっ!」
「分かりましたよ」
トキヤの肩に顔を埋める音也の言う通りにして、左手に持っていたリモコンを赤いソファーに投げた。
「ね、トキヤ、こっち向いて」
「はい?」
赤いソファーを見ていると、音也に声を掛けられて振り返る。
音也は目を細めて笑い、瞼を閉じた。
それを見て、トキヤも同じようにする。
唇が触れ合い、離れ、視線を交わす。
そして、トキヤと音也はまた微笑み合った。
「トキヤ、これからもよろしくね」
「ええ、こちらこそ」
早乙女学園の寮の部屋を去る時、「ばいばい、俺たちの部屋」と音也が微笑んで言うのを隣で聞いていたトキヤは酷く切なさを感じた。
初めてあそこへ立ち入り、1年間の生活の為の準備をした後に部屋を離れようとした時にも彼は同じ顔でそう言っていた。
「ばいばい」なんて、トキヤは言いたくなかった。
音也とずっとあの部屋で過ごしていたかった。
けれど、その願いが叶うはずがなく、音也に促されてトキヤも「それでは」と言い、荷物を抱えてあの部屋を去った。
そして、あの部屋とはそれきりだ。
どんなに願っても、天国のようだった、あの部屋へ、学生の頃へは帰れない。
幸せだったと、やり直したいとどれだけ思っても、戻ることはできない。
涙を流しても、祈っても、それには何の意味もない。
だけど、あの部屋に帰りたいと願う必要はもうなかった。
音也と一緒に暮らしていた学生に戻りたいと思う事ももうない。
今日からのトキヤと音也が帰ってくるのは、この引っ越してきたばかりの新しい部屋だ。
ここへ帰ってくれば、きっと音也が「トキヤ」と名前を呼んで出迎えてくれる。
もし音也がまだ帰っていないなら、トキヤが音也にそうしよう。
あの頃と同じように、音也に部屋を片付けなさいと叱り、ギターがうるさいと怒り、夕食の後に食器を洗ってくれたら誉めながら暮らそう。
そして、あの頃とは違って、そんな生活の中でふたり分の愛情を育てて生きていこう。
いつか、ノンフィクションの人生が終わりを迎えるその日まで。
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