アドリブの始まり
トキヤとして音也に呼び掛けてしまってから、HAYATOはなるべく彼に接しないようにした。
また同じ事をしでかせば、音也はまたあの眼差しをHAYATOに向けるだろう。
そして、『気にしてない』と言ってくれないまま、自分の元を去っていくだろう。
それを避ける為に、泊まるのを止めて、少しでも空いた時間を使って彼と会う事も止めた。
連絡も電話ではなくメールで済ませるようにした。
そして、音也と会う時には細心の注意を払った。
言葉遣いや立ち居振る舞い、私服のセンス、食事の好みを完全に、少し行き過ぎるくらいHAYATOのものにした。
しかし、音也と付き合い続ける為にどれだけ手を尽くしてみても、HAYATOの不安は拭いきれなかった。
音也と一緒に笑いながらも、本当にHAYATOとして笑えているかが気になって仕方なかった。
話をしながらまたトキヤとして口を開いてしまいそうで怖かった。
それでも、しばらくの間はそう過ごす事で、少なくとも表面上では上手くいった。
音也の本当の気持ちはHAYATOには分からないが。
けれど、そんなHAYATOの意に反して、最近の音也は頻繁に電話を掛けてくるし、会おうともしてきた。
例え滞在時間が10分だけであろうとHAYATOの家へと来たり、朝食だけを食べに来たりする。
その時の彼はにこにこと笑ってHAYATOに「可愛い」「好き」と囁き、抱き締め、キスをする。
前までと何一つ変わらない態度だ。
もしかしたら、音也はあの失態を本当に気にしていないのかもしれない。
忘れてさえいるかもしれない。
音也の素振りを見ているとそう思えるが、それでもあの視線はHAYATOの心に影響を深く残したままだった。
そんなある日の夕方、仕事の合間を縫って音也がHAYATOの家へやってきた。
「待ってたよ、音也くんっ」と彼を満面の笑みで迎えると、照れたような表情が返ってくる。
いつも通り、赤いソファーに座った音也にミルクと砂糖がたくさん入ったコーヒーを出した。
それから、隣に座った自分の前にも同じコーヒーを置く。
コーヒーを飲みながら、音也の仕事の話にHAYATOが笑顔で相づちを打つ。
「そういえば、前から思ってたんだけどね、音也くんの手っておっきいよね」
ギターの話へと変わった時にふとHAYATOは、今はコーヒーカップを持つ音也の右手を見た。
音也は「そうかなあ」と言いながらカップをローテーブルへと置いて、自分の手を観察する。
手のひらが大きく、筋張った手をひらひらと裏返しながら見ていた音也はHAYATOに手のひらを見せるようにかざした。
その意味が分かったHAYATOは自分の左手をそれに合わせて、大きさを比べる。
堅い感触と暖かい体温が伝わる中で、音也の指先はHAYATOのものを超えていた。
「ほらぁ。男らしくて羨ましいにゃ」
「へへ、ありがと」
指を絡めて繋いだHAYATOの手を音也は笑顔で眺めた。
「HAYATOの手は綺麗だよね。指とか細いし、爪の形も綺麗だし」
「ほんとに? わーい、嬉しいっ」
手を誉められたHAYATOが笑顔を浮かべた。
「すっごい好き」
彼が呟いたかと思えば、爪先にキスをする。
HAYATOが驚いて指先をびくつかせたのを見て、彼は笑う。
「可愛い」
「もうっ、そんな事ないよっ」
ふてくされて見せると、音也の手が離れた。
そして音也の指先がHAYATOの頬を優しくなぞり、肩を抱く。
「HAYATO」
砂糖のような、ケーキのような、チョコレートのような、そんな声で名前が呼ばれる。
音也に抱き締められるとHAYATOも背に腕を回した。
暖かい体温と太陽のような匂いに目を閉じる。
「ね、キスしよ」
「……音也くんはしょうがないにゃあ」
呆れた顔をしても、音也からのキスを受け止める。
咥内に舌が割り込んでくれば、そろそろと絡ませた。
その合間に真っすぐな視線と共に「好き」と囁かれれば、HAYATOも息を切らせながら「ボクも好き」と返す。
前まではこんなやり取りが幸せで堪らなかった。
何も考えられない程、他に何もいらないくらい、穏やかで暖かな幸福が胸に溢れた。
それなのに、今は幸福にも音也の体温にも溺れる事ができない。
幸福を感じると同時に胸の裏側が不安で大きく痛んでしまう。
その痛みがHAYATOをずっと臆病の水面に浮かべていた。
「HAYATO」
「……ん? なぁに?」
突然唇を離した音也が額を触れ合わせて正面から見つめてくる。
至近距離からその瞳に見つめられると、今HAYATOが抱えているものを見透かされてしまいそうだった。
にこにこと微笑みながらも、HAYATOは居心地の悪い思いをした。
「テレビ付けていい?」
「……あ、うん、いいよ」
音也の唐突な言葉に、HAYATOはほっとした気持ちになりながら頷く。
離れていく彼に気づかれないように息を吐く。
「明日俺が出るワイドショーを参考に見とけって言われててさ」
音也がそう言ってローテーブル上のリモコンを使ってテレビを付ける。
すると、少し間を置いて、夕焼けに染まる学校の屋上が映って、聞き覚えのある声がスピーカーから響いた。
そう思った瞬間、夕学ランを着たHAYATOが映る。
「あっ、HAYATOだ! このドラマの再放送やってたんだね」
音也が嬉しそうに声を上げた。
「……ん? でも、このシーンって……」
何かを思い出した彼は声を潜めた。
彼より先にこの後の展開を思い出していたHAYATOはほんの僅かに眉を寄せて画面を見つめた。
『先生! 今日で辞めるって本当ですか!?』
黒のスーツを着た女優が振り返り、HAYATOを見て悲しげな表情をした。
悲痛な顔をしたHAYATOが彼女に近寄る。
『どうして、突然……』
『あなたには関係ないでしょう』
『そんな……』
傷ついた表情をするHAYATOから彼女は顔を背けた。
HAYATOは数秒の間俯いていたが、顔を上げて、真剣な面持ちで彼女を見つめる。
『先生、聞いてください。私は先生のことが』
『聞きたくない!』
想いを伝えようとしたHAYATOの言葉を彼女が叫ぶように遮った。
『お願いです、聞くだけでいいんです……』
『駄目……言わないで』
『どうしてなんですか? 私は、ただ先生に聞いて貰えれば、他には何も……っ』
『聞いたら止められなくなるの!』
『……先生』
彼女の言葉を聞いたHAYATOが目を見張る。
無言でテレビを見つめている音也を見て、HAYATOは目を伏せた。
この、恋愛に興味がなく、優秀に生きてきた女性教師と、真面目な優等生の男子高生が結ばれるまでを描いた恋愛ドラマが放送されたのは3年前だ。
その当時も、音也と並んでこの回を見ていた。
「あーあ、このドラマも最終回かあ」
赤いソファーに座って、クッションを抱き締めながら音也が嘆いた。
「このHAYATOってトキヤみたいで本当におもしろかったのに……」
「ですから、私はこんなのではありません」
トキヤが早口で否定しても彼は聞く耳を持たない。
「だって優等生で敬語じゃん、クールなとこもそっくり! この役はHAYATOじゃなくてトキヤがやればよかったのにさ」
そう言うのは音也だけでなくクラスの者達も同じで、放送日の翌日に「そっくり」と何度も揶揄されるせいで登校するのが毎週億劫で仕方なかった。
今日でようやく最終回かと思うと、解放された気持ちでいっぱいになる。
「でも、HAYATOってこんな役もできるんだね。自分と正反対の役なのにさ」
「そうですか? 優等生という役の割にはどこか馬鹿っぽく見えますが」
「トキヤがそう思おうと思ってHAYATOを見てるからだろ」
そんな事を話していると、教師と想いを伝えあった生徒のふたりが微笑み、キスをした。
テレビには、振りではなく実際にキスしている姿がはっきりと映る。
「わーっ! は、HAYATOが! HAYATOがキスした!」
それを見た音也が目を見張って、トキヤの首に縋って叫んだ。
耳元で叫ばれて耳が痛くなる。
トキヤも相手の女優も、どちらも仕事だと割り切ってやっている事で、何の意味も持たないキスに一々騒がれても困る。
「うるさいですね。これぐらいドラマに出れば当たり前でしょう」
そう言いながら引き剥がそうとしても、音也は力を入れてしがみついてくる。
「えー……でも何かショック……。あっ、トキヤは? トキヤはキスしたことある?」
やたらと真剣な赤い双眸に見つめられ、トキヤは黙り込んだ。
『先生、私は先生の事が好きなんです。本当に好きなんです』
HAYATOが彼女の手を握って、目をまっすぐに見つめる。
彼女の瞳に涙が浮かび、口元には笑みが浮かんだ。
『……私も、私もあなたが好き』
今、目の前のテレビではHAYATOと教師役の女優がキスをしようとしていた。
目を閉じたふたりの鼻先が触れ合う。
咄嗟にHAYATOはローテーブルに手を伸ばした。
「これ以上は恥ずかしいから見ちゃだーめっ!」
掴んだリモコンでテレビを消すと、ふたりの唇が触れる寸前に画面は暗くなった。
音也は瞬きをして真っ暗な画面を見つめた後にHAYATOを見る。
その瞳に陰りが帯びている事に気づき、HAYATOは動揺して唇を結ぶ。
あの時の音也はこんな顔をしなかった。
ただ騒いでいただけだ。
なのに、どうして今はこんな顔をするのだろう。
彼は無言でHAYATOの手を引いて抱き寄せる。
大人しくその腕の中に収まれば、痛いほどに抱き締められた。
「っ……、なぁに? あ、もしかして、音也くん妬いちゃったかにゃ?」
苦しさから小さく息を吐くと同時に思い当たった考えを口にした。
「……うん、そう」
HAYATOは茶化すように言ったのに、音也は悲しげに笑って頷いた。
予想外の反応にどうすればいいのか分からず、困ったように笑いかけて赤い髪を撫でる。
音也が顔を寄せてきたので、何も言わずに瞼を閉じた。
もう数えられないほどに触れた唇が自分のものに重なる。
「ねー、トキヤってキスしたことあるのかって聞いてるんじゃん!」
音也はトキヤから離れたものの、質問は止めない。
トキヤは彼からクッションを奪って顔面に押しつける。
「……黙秘します」
仕事でのものを除けば、答えは「ない」だ。
しかし正直に答えるのは嫌で、曖昧にする。
「トキヤってモテるもんなあ。クラスの子が『一ノ瀬さんカッコいいね、部屋ではどんな風なの?』って聞いてきたし」
押しつけられたクッションを抱えなおした彼はニヤニヤと笑った。
トキヤは冷めた視線を送り、腕と足を組む。
Aクラスの女子にそんな事を言われたって何も嬉しくはない。
それを音也が楽しそうに報告してくる事の方が問題だ。
「……もちろん毎日叱られていると答えたんでしょうね」
音也はその生徒に何と答えたのだろうと思いながら、呆れた態度を装う。
「ええー、それは言ってないけどさあ……。じゃなくて! キスだよ、キス! したことあるんですか! ねえ、トキヤァ」
トキヤと距離を詰めてきた音也が、甘えた声で名前を呼んだ。
そういえば、最近ずっとあの甘えた声でトキヤと呼ばれていない。
子どもが親に菓子をねだるようなあの声を。
どうしてだろうと考えて、すぐに答えを見つけた。
ああそっか、HAYATOって呼ばれてるもんね。
そんな親子みたいな呼び方じゃなくって、HAYATOって、恋人に対しての甘い声でさ。
その声はすっごくすっごく優しくて甘くて。
それで、HAYATOって。
でも……。
最後にトキヤって呼ばれたのはいつだっけ。
特番の打ち合わせの時の……。
そういえば、トキヤって呼ばれると本当に嬉しかったな。
甘えた声でも、拗ねた声でも、楽しそうな声でもよかった。
音也の声で名前を呼ばれるだけで、例え彼に怒った顔をして見せていても、本当は嬉しかった。
ふと、伏せられた写真立てと、音也のあの視線を思い出した。
その瞬間に胸の裏側から悲しみが流れ出てきて、それが表側にまで溢れた。
どうすればそれが治まるのかが全く分からない。
HAYATOにはどうしようもなくて、音也に縋るように腕に力を込めれば、悲しみはさらに増してしまう。
悲しくて仕方がなくて、ついには涙が零れた。
HAYATOの頬を濡らした涙は音也の頬をも濡らしてしまう。
「……HAYATO?」
目から溢れる涙はHAYATOがどれだけ拭っても拭いきれなかった。
音也から体を離して、シャツの袖で拭っているとそこがどんどん色濃くなっていく。
「ど、どうかした? どっか痛い?」
ティッシュ箱を引っ掴んだ音也が慌てた様子で尋ねてくる。
HAYATOは何度も首を振った。
「っ……なんでも、ないよ。何でも……」
「嘘。じゃあ、何で泣いてるの」
音也がティッシュで涙を拭きながら、真剣な声で言った。
コンタクトが、と言いかけて口を閉ざす。
「ほんとに、何でもないよ。ごめんね」
悲しくて泣いているのは分かる。
けれど、どうして悲しいのかが自分でも分からないのに、音也に説明できるはずがなかった。
「っ、教えて。何でもないのに涙なんてさぁ!」
「……気にしなくて、いい、から」
涙を流しながら掠れた声で言っても何の意味も無い。
音也は自分までも泣きそうな顔でHAYATOの涙を拭き続ける。
「……あのさ」
小さな声で音也が言う。
「俺の事、……嫌いになった?」
彼の言葉に、HAYATOは目を大きく見開いて見つめた。
そして頭を振る。
「俺と付き合うの、嫌になった?」
音也が何故そんな事を言っているのかが分からなくて困惑する。
それに気を取られたせいか、涙は止まっていた。
「ううん、違うよっ! どうしてそんな話になるの?」
まるで彼がアドリブを言っているようだ。
HAYATOには彼が何を考えているのかが全く汲み取れない。
濡れた頬を拭う音也の右手を掴むと、彼が強くその手を握った。
「……なら」
何かを言いかけた彼が躊躇った素振りで俯いた。
彼の手が震えている事に気づいて、音也の肩にそっと手を置いた
もしかしたら、今度は音也が泣いているかもしれない。
そう思ったHAYATOが「音也くん」と小さく呼びかけた。
途端に、音也の肩が大きく動いた。
まるで叱られた子どものようだ。
HAYATOは彼の肩を撫でながら、様子を見守る。
「なら、……じゃあ……、……HAYATOとして、俺と付き合うのが嫌になった?」
顔を上げた音也がとても辛そうな顔をしながらも笑って言った言葉に、HAYATOは声を失った。
|