How to tell you love 前編
「一十木さん」
トキヤの綺麗な声がひどく冷めた調子で俺を呼んだ。突然そんな風に呼ばれたせいで目を丸くして驚く俺に追い打ちを掛けるように、何の感情も籠らない視線が投げかけられる。
「預かっていた鍵をお返しします」
「鍵? あ、これっ……」
差し出されたから反射的に受け取ったものは、トキヤに渡した俺の家の合鍵だった。俺のサインが書いてあるおんぷくんのキーホルダーが付いたそれを初めて渡した時、トキヤは照れくさそうにしながらも嬉しそうに笑ってくれた。なのに、今は照れてもないし嬉しそうでもない。それどころか、道ですれ違った知らない人を見る目で俺を見ている。
「な、何で返すんだよ」
「別れたでしょう」
「別れてない! 保留にしようって言ったんだよ!」
「では、『別れたい』という意思表示です」
「……『一十木さん』って呼び方も?」
「ええ」
トキヤが白い手を差し出す。戸惑いながらその手を握ろうとしたら、するりと逃げられた。
「私の家の鍵を返して下さいと言っているんですよ。一十木さん」
俺とトキヤがもう何度目か分からない喧嘩をしたのは昨日の夜の事だ。喧嘩というよりは、トキヤが俺への不満を爆発させたって感じだけど。人前でくっつきすぎだとか、止めろって言ったら止めろとか、脱いだ靴を揃えろとか、いい加減ピーマンを食べられるようになれとか……。いつもなら、しばらく説教した後に深いため息を吐いて、「これからは気を付けてくださいよ」と言って俺を許してくれる。だけど、昨日は違った。
「……もういいです」
床に正座した俺を腕組みしながら見下ろしていたトキヤが吐き捨てるように言う。声の響きから、「もうこれでお説教はおしまいですよ」って意味には思えなくて首を傾げた。形のいい唇がまた動いた。
「別れましょう」
「……えっ? い、今、なんて……?」
「別れましょう」
聞き間違いを祈ったのに同じ言葉が繰り返される。今までに言われた事が無い言葉だ。
「嫌だよ!」
勢いよく立ち上がった俺をトキヤは冷たい目で見た。
「もう疲れました。別れてください」
「絶対に嫌だ! 俺、ちゃんと反省するからさぁ!」
「そう言って、一週間後にはまた戻るんでしょう?」
「そ、そんな事」
「あるでしょう。自覚してないんですか? 何度同じ事で私が怒ったと思っているんですか」
慌てる俺とは正反対に、トキヤは淡々とした口調で図星を突く。トキヤの言うとおりだ。言われた直後は反省して、注意された事を守るけど、そのうち頭から抜け出て元の状態に戻ってしまう。それからしばらくして、また叱られるというパターンを繰り返してきた。
「でも、俺は別れたくないよ。トキヤの事好きなのに」
「その好きな相手の注意も守ってくれないんですね」
俺の胸に深く刺さって何も言えない。本当だ。トキヤが俺を思って言ってくれていた言葉を何度も忘れてきた。トキヤからしてみれば、きっとすごく悲しい事だ。
「あなたには愛想が尽きました」
「トキヤ!」
だけど、絶対に別れたくなんかない! そう思って縋る俺をトキヤが振り払い、時計に視線をやる。
「もう遅いので帰ってください」
「えっ、今日泊るって話……」
今日の夕方から明日の昼前まで仕事が無いから、久しぶりにふたりでゆっくり過ごそうって言ってたのに。数時間前までは、並んで映画のDVDを見ながらいちゃいちゃしていた。トキヤも言葉には出さなかったけど今日を楽しみにしてくれてると思ってた。
「別れた相手を泊めたくありません」
「だから、別れたくないよ!」
「もうこれ以上あなたと話したくありません。さっさと帰ってください」
もっと俺の気持ちを伝えたかったけど、今のトキヤの耳には届かない。これ以上居座って「別れたくない」と言い続けても、逆に苛立たせてしまうだけだ。肩を落として小さく頷く。
「……分かった、今日は帰るよ。でも! 別れないからね!」
そっぽを向いたトキヤは何も言わない。
「保留、保留だから! 明日、仕事終わったらまた話そうよ!」
話は確かにそこで終わって、連絡も取れないまま今日のスタジオまで来たから、まだ別れてない。なのに、トキヤは差し出した手を引っ込めようとしない。
「トキヤぁ……、俺こんなの嫌だよ……」
余所余所しく『一十木さん』なんて名字で呼ばれるのも、俺の合鍵を返されるのも、別れたいって言われるのも。昨日までのように、『音也』って優しく呼んで、それでいつでも俺の家に来てほしいのに。
「ちゃんとする! 本当に今度こそちゃんとするから、だから」
「しつこいですね。いいから返してください」
ここでトキヤの合鍵を返してしまうのは離婚届に判子を押してしまうのと同じ意味に思えて、頑なに首を振った。渡したらおしまいだ。
「も、持ってきてない」
「馬鹿な事言わないでください。そんなはずないでしょう」
俺が自宅の鍵とトキヤの合鍵をまとめて持っているのはトキヤも知っているから、嘘はすぐに見抜かれてしまった。ショルダーバッグをチラリと見ると、トキヤが視線に気づいて同じ方向を見た。
「バッグの中にあるんでしょう、早く持ってきてください」
「だから嫌だってば!」
「なんだぁ? また喧嘩してんのかおまえら」
「喧嘩はよくないですよぉ」
ドアを開けて控え室に入って来た翔が呆れた顔をして、那月はいつも通りの笑顔を浮かべた。ふたりを見て、少しホッとした気になる。第三者がいる事で、トキヤも少しは冷静になってくれる……。
「翔、四ノ宮さん。私達別れます」
全然なってくれなかった、それどころか別れを宣言されてしまう。俺とトキヤが付き合っている事をST☆RISHのメンバーと七海や友千香は付き合いだした頃から知っていて、時々相談に乗ってもらったりノロケたりしていた。
「はあ? ……あー、そうか」
翔がちょっと驚いた顔をしてから俺を一瞥して『何したんだよ』と目で聞いてくる。何もしてないよ、とは言えないけど助けを求める視線を返す。
「えっ、そうなんですか? せっかくお似合いなふたりなのに」
「止めてください。こんな男とお似合いだなんて言われたくありません」
トキヤがつんと言って、畳が張られた部屋の隅に座る。その隣に那月がそっと座って小声で何かを話し掛けたけど、トキヤは態度を崩さない。
押しつけられた俺の家の鍵をポケットに入れて、小さく息を漏らした。そろそろ仕事に意識を切り替えないと……。今日は来週発売されるシングルCDの宣伝を兼ねた、音楽雑誌のインタビューとグラビア撮影だ。すぐにレンとマサも来た後、グラビア撮影の為に衣装に着替えてメイクとヘアセットをする。それからまずはインタビューが始まった。
CDのテーマとレコーディングの話の後に、近況を質問された。
「一十木さんは最近の休日をどのように過ごしたんですか?」
「え、ええと」
途端に、一生懸命心の底にしまっていたトキヤの事が頭に浮かぶ。トキヤと喧嘩して、別れようって言われました。……言えるわけない。でも、とっさに嘘も言えなくて、半分だけ答える。
「丁度昨日の午後から一日オフだったんですけど、……トキヤと映画のDVD見て、その後は……家で寝てました」
朝起きてメールと電話してみたものの、トキヤが無反応な事に落ち込んで、その後はギリギリまで寝ていた。せっかくの休日なのに、何してるんだろう。
「へえ、そうなんですか! 何の映画をご覧になられました?」
「去年のアカデミー賞を受賞してたアクション映画です。主役のアクションがもうめちゃくちゃ格好良くて興奮しました!」
「ああ、凄く良かったですよね。でも、一ノ瀬さんはアクション映画はあまり見ないイメージですね」
「……音也が持っていたDVDなんです」
インタビュアーのお姉さんを見て話すトキヤの横顔を思わず見つめてしまう。トキヤが今、音也って……。
「ですが、私もアクション映画は好きですよ。演技の勉強にもなりますし。時々、音也や翔からオススメのタイトルを借りて見ています」
やっぱり音也って呼んだ! えっ、さっきまで一十木さんだなんて呼んでたのに……。心臓がバクバクする。
「一ノ瀬さんのアクション、いつか見てみたいです。来栖さんのオススメの映画は何ですか?」
翔が日向さんの映画を挙げて細かく説明していくのを聞きながら、トキヤをジッと見ていると目が合った。何か話し掛けようとしたけど、その前に顔が背けられて、翔をイジるレンにちょっと笑いながら同調し始めた。
その後もいくつかの質問に答えている間、トキヤは何度か俺の事を『音也』と呼んだ。なのに、目が合っても前みたいにこっそり笑いかけてくれたりしない。訳が分からないままインタビューは終わって、グラビア撮影に移る。
まずは六人全員で。今回のシングルは爽やかな青春を歌ったものだから、それに合わせて笑顔でいろんなポーズをしていく。何度も立ち位置を変えていく。微笑んでいるトキヤの隣に立つ度に何だか落ち着かなくて、ソワソワするのを我慢しないといけなかった。隣でトキヤが笑っているなんて、最近は珍しい事でもなかったのに。
その後、ふたりずつカメラの前に立つ。ST☆RISHというグループになった今でも、ペアを組む時は学生時代の同室同士の事が多い。そして、今回も俺はトキヤとペアになった。まずは翔と那月から撮影が始まって、その間に話し掛けようとしたけど、待ち時間の間にヘアセットをもう一度整える事になって話せなかった。
俺達の番になり、熱い程の照明を受けながらカメラの前に立つ。さっきまではグループだったからよかったけど今度はふたりだ。どうしてもトキヤを意識してしまう。様子を見る為に目を向けると、トキヤも俺を見ていた。冷たい視線でも、赤の他人を見るような目でもなかった。
「なんですか、音也。緊張してるんですか? 顔が笑っていませんよ」
「えっ?」
確かに、仕事中なのに別れ話とか『一十木さん』や『音也』の事が心から離れなくて、今の俺はあんまり上手く笑えてないと思う。トキヤはふっといつもの自信がありそうな笑みを浮かべた。
「しっかりしてください。普段通りのあなたでいいんですよ」
「う、うん!」
思わず大声が出て周りの人に笑われてしまう。俺も一緒に笑った。心が軽くなって、どこまでも飛んでいきそうだ。カメラマンの指示に従って、背中合わせで立ったり、肩を組んだりする。トキヤは服越しに体温を感じる程密着しても嫌そうな様子を全然見せなかった。だから、俺は許してくれたんだと思った。「仕方ないですね、今度だけですよ」って撮影の後に言ってくれるんだって期待した。
写真のチェックも済み、無事にこの仕事は終わった。早くトキヤと話したくて堪らなかった。この後、ふたりとも別の仕事があるから長くは話せないけど、少しだけでもいいからふたりで笑って話したかった。
控え室に戻って、衣装を脱ぎ始めているトキヤの側に寄って行く。
「ねえねえ、トキヤ」
斜め下に向けられた視線は動かない。俺は首を傾げた。
「ねー、トキヤってば!」
深い深いため息。それから物凄く面倒くさそうに俺を見た。さっきまでの撮影が嘘みたいな目だ。
「…………何ですか、一十木さん」
「えっ?」
「用が無いなら話しかけないでください」
「え、トキヤ? どういう事? だって、さっきは」
音也って呼んで、俺を励ましてくれたのに。頭の中がぐるぐると回る。
「仕事とプライベートは別です。あのグラビアはあなたと笑顔で写る事が何よりも大切だったので、それを守っただけですよ」
体中の熱がすーっと冷たくなって、それから一気に熱くなる。
何だよ、それ。俺、すごく嬉しかったのに。嘘だったんだ。そう思うと悲しくて、何よりムカついた。
「あっそう! もういいよ、別れる! じゃあな、一ノ瀬!」
声を荒げると、一ノ瀬が少し驚いた表情をした。
名前でずっと呼んできたから、名字を口にするのは初めてだった。
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